服が「批判材料」になる前に、先手を打つ
公の場に現れる人物の装いは、しばしば本人を攻撃する材料に変えられる。
2020年、アレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員が『Vanity Fair』誌の表紙を飾った際、英タブロイド紙は、表紙と誌面で着用した複数の服やジュエリーの価格を合算し、約1万4,000ドルと報じた。しかし、それらは撮影のために用意された借用品であり、スタイリストが構成したルックだった。にもかかわらず、保守系メディアや論客はその金額を、民主社会主義を掲げる彼女への政治的批判の材料にした。
ラマとスタイリストのGabriella Karefa-Johnsonは、そうした批判が起こり得ることを理解していたのだろう。就任式の衣装クレジットでは、多くのアイテムについて「レンタル」「借用品」であることを明記した。高価な服を所有しているという批判の前提を、あらかじめ崩したのだ。これは防御的な対応であると同時に、積極的なメッセージでもあった。
New York Vintageの創設者Shannon Hoeyは、ラマが借りた1980年代のヴィンテージイヤリングについて、こう語っている。
「購入するのではなくレンタルすることで、彼女はアーカイブピースに新たな命を与えただけでなく、サステナビリティ、サーキュラーファッション、そして小規模な独立系ビジネスを支援することの重要性を、さりげなく示しました」
「レンタルである」と明示することは、透明性であり、サステナビリティへのコミットメントである。そして、予想される批判への先手であり、独立系クリエイターへの支持表明になる。一つの判断が、これだけ多くの意味を持つ。それは単なる政治的計算ではない。もともと古着を好み、小規模なブランドを選んできた彼女の価値観が、公的な立場においても貫かれた結果なのだ。
公的空間に何を持ち込むか
プレゼンスとは、何を着るかだけではなく、その選択を通して、どの思想や文化圏を公的空間に持ち込むかという姿勢でもある、と筆者は考えている。
ラマがパレードにまとった服は、複数のものを同時に可視化した。ニューヨークのストリートカルチャー、スポーツの祝祭性、インディペンデントデザイナーの才能、アップサイクルという持続可能な発想、そして移民都市ニューヨークの多層的なエネルギー。それらを一着に凝縮して、市庁舎前という公的な場に持ち込んだ。


