自身の価値観とも一致するルック
ただし、ここに一つ重要な前提がある。「意図があることと、自然であることは矛盾しない」ということだ。
公的な場に立つ以上、ラマの装いにも明確な意図がある。就任式では、スタイリストのGabriella Karefa-Johnsonとともに、レンタル、ヴィンテージ、独立系ブランドを組み合わせたルックを作った。
しかし、その意図は外側から付け加えられたものではなく、彼女が以前から持っていた価値観と一致している。彼女はファーストレディになる以前から、古着を好み、独立系デザイナーを選び、視覚言語で世の中とコミュニケーションをとってきた。だからこそ、その作為だけが前に出ないのだ。
夫の選挙キャンペーンでは、ビジュアル・アイデンティティの最終調整に関わり、アイコンや書体にも意見を出した。選挙勝利の夜には、パレスチナ系デザイナーZeid Hijaziによる、レーザー加工で文様を施したデニムトップを着用。就任式では、パレスチナ系レバノン人デザイナーCynthia Merhejのカスタムコートをまとった。NYFWではDiotimaのショーのフロントローに座り、そしてニックスの優勝パレードにはMiss Claire Sullivanのアップサイクルトップで登場した。
彼女が選んできたのは、巨大メゾンの権威ではなく、それぞれに文化的背景と明確な思想を持つ独立系デザイナーの仕事だ。
一つひとつの選択が、戦略としてだけ機能しているのではない。彼女自身の意思決定と、それに基づく選択が、これまでの在り方の延長として現れ、その結果として戦略的な意味も持つのだ。
だから「おお、いいじゃない!」と見える。服と、その人が継続的に発してきた非言語がうまく一致して全体像が完成したとき、そこに説得力が生まれる。これがプレゼンスの正体だ。
「誰が着るか」がすべてを決める
もし別のファーストレディが同じドレスを着ていたとしたら、どう見えただろうか。おそらく「奇抜」か「無理をしている」と映っただろう。服だけを正しく選んでも、プレゼンスは成立しない。服とその人の発しているストーリーのトーンが合っていなければ、どれだけ理にかなった選択であっても、それはミスマッチであり、浮いてしまうからだ。
これはビジネスの文脈でも同じだ。
あるリーダーが、カジュアルな場でジーンズとTシャツで現れることが「自然」に見えるのは、普段からそのトーンを生きているからだ。別のリーダーが同じ格好をすれば、「キャラクターではない」と感じられる。プレゼンスとは、その瞬間の演出や作り込みではなく、積み重ねてきた在り方が外側に滲み出たものだ。
エグゼクティブ・プレゼンスのトレーニングが、「どう見せるか」に偏りすぎるとき、それは表面的なスキルの習得にとどまる。本当に問われているのは「どう在り続けてきたのか」という日々の継続だ。そして世間の人々は、その継続のほんの一コマを見て本物か否かを判断する。
ラマのプレゼンスが機能しているのは、彼女が「ファーストレディとしてどう見せるか」ではなく、「アーティストである自分が、ファーストレディという役割を持ったとき、どう在るか」を生きているからだ。そしてその「どう在るか」は、彼女の28年間の人生が積み上げてきたものなのだ。


