奇妙に感じるかもしれないが、退くことで何を回避できるかを考えれば納得できる。マスト状態の雄は、理にかなった範囲を超えて攻撃をエスカレートさせるため、おそらく戦えば勝利できるライバルでさえ、立ち去るには十分な理由があるのだ。
このシグナルが有効なのは、偽装できないためだ。マストは代謝的に大きな負担を伴い、その期間中、雄は体力を消耗する。マスト状態にある雄がアピールしているのは、その体の大きさではなく、どこまで徹底的にやれるかであり、真に体調の良い個体だけが、それを長く続けられる。これは、「コストを伴う、体調に依存したシグナル」という言葉によって生物学者が意味することだ。コストが重要なのは、このコストによってシグナルの信頼性が保証されるためだ。
マスト状態の雄ゾウは、なぜ殺戮へと駆り立てられるのか
これには2つの結果が伴う。第一に、雄同士が戦う場合、通常はマスト期の雄が事態をエスカレートさせ、その結果は致命的になり得る。一度戦いを始めたゾウは、そこから簡単に抜け出すすべがなく、その巨体から突き出される牙は致命傷を与えることになる。
第二に、その攻撃性は、競合相手とは無関係な動物にまで及ぶ。マスト状態の雄は、サイやバッファロー、車両、さらには人間までも襲うが、これらはいずれもその雄ゾウの交尾の機会とは何の関係もない。インド、ネパール、スリランカの一部では、密集して住む人間がゾウと同じ土地を共有しているため、こうした遭遇によって毎年数百人が命を落としている。
2021年に『Ecology and Evolution』で発表された研究で、ネパールの低地で過去20年間に発生したゾウの襲撃事例をまとめたところ、その大半に、単独の雄、または成熟間近の雄たちの小さな群れが関与していたことが判明した。
こうした現象には通常、抑制要因も存在する。それは、生理的なものではなく社会的なものだ。つまり、年長の雄の存在が、若い雄のマストを抑制しているようなのだ。こうした抑制によってマストの時期がずれるため、個体群がマスト状態の雄であふれかえることはない。
このことを明らかにしたのは、南アフリカのピラネスバーグ国立公園で起きた不幸な自然実験だった。2000年に『Nature』で発表された研究によれば、間引きによって親を失い、成体の雄がいない環境で育った若い雄たちは、本来よりも数年早くマスト期に入り、1992年から1997年のあいだに40頭以上のシロサイを殺した。そして、クルーガー国立公園から、年長の雄を6頭導入したことによって、こうした事態は収拾した。
マストについては、まだ解明されていない点が多い。テストステロンの急増が直接的に攻撃性を引き起こすのか、それとも、社会的状況が両者を同時に引き起こすのかは、依然として未解決の問題だ。また、マストはアジアゾウとアフリカゾウで大きく異なるため、一方の調査結果が必ずしも他方に当てはまるとは限らない。
明らかなのは、マストが、普段は穏やかな動物の機能不全、というわけではないことだ。マストは、ゾウの繁殖において重要な役割を果たしており、その調節には年老いた雄の存在が不可欠だ。
しかし、密猟や狩猟では、まずは最大の牙を持つ個体が狙われる。つまり、この仕組み全体を安定させている個体が、最初に排除されてしまうことになるのだ。


