杉村によると将棋の局面の組み合わせは「10の220乗通り」ともいわれ、これは宇宙に存在するすべての原子の数(約10の80乗個)をも超える天文学的な数値である。
AIの実力が人間を超越して強くなればなるほど、過去に人間の常識や定跡によって捨てられていた手も次々と再評価され、一手一手がさらに多様性を増していく。その結果、選択肢はまるで宇宙のように無限に広がり続けているのだ。
杉村は、将棋AIの伸びしろが尽きることはないと断言する。
「例えば2020年の優勝ソフトと今のAIを戦わせると、相手にならないぐらい今の新しいAIが勝ちます。将棋というゲームは場合分けの数が多過ぎて完全解析には至らない。どうしてもわからない部分がある以上は、AIだって間違える可能性があります。今後もAIの実力はまだまだ伸び続けると思います」
底知れぬ進化を続けるAIと向き合うなかで、杉村が新たに見据えるテーマがある。それは、AIの思考を人間に理解できるかたちで「言語化」し、戦術の魅力を伝えることだ。
将棋中継ではAIによる「勝率」がリアルタイムで表示され、ルールを知らなくてもスポーツのように楽しめるようになった。しかし、その「中身」を言葉で伝える技術はまだ途上にある。
「今までは『この手がいちばんいい手』『勝率はいくつ』ということしか、AIは教えてくれませんでした。しかし、なぜその手がいいとされているのかを言語的に解説できれば、面白いものになると考え、今、開発を進めています」
現在の生成AIはチャットボットのような「一般的な会話」は小気味よくこなせるが、例えば将棋のような専門性の高い領域のルールや戦術を正確に理解し、解説することが苦手だ。杉村が構想しているのは、例えば棋力の異なる複数の将棋AIを対局させ、その結果を人間が理解しやすいかたちで可視化しながら、「AIによる戦術解説」を加えるようなサービスだ。これが実現すれば、初心者にとっても将棋の戦術を理解する大きな助けになるだろう。
さらに杉村の視座は、将棋の世界にとどまらない。将棋AIの言語化への挑戦は、生成AIがまだ手つかずの専門分野を開拓する足がかりにもなると考えている。
「私の専門である法律の分野でも、AIのルール理解度は日々向上しています。ところが、どうしても裁判例のデータが少ないため、個別のケースの判断が困難になる状況は変わりません。ですから、専門分野の深い知識がなくても、AIが正確に判定し、その判定の理由を上手に説明できるようになることには、大きな意味があると考えています。AIを足がかりにしながら、人間の可能性をより大きく広げられる可能性を感じるからです」
将棋AIは、ただ強さを求めて相手を打ち負かすのではなく、人間の探究心に寄り添いながら、これまで見えなかった将棋の世界の解像度を引き上げてきた。
最強の将棋AIを生み出したエンジニアであり、本業は現役の弁護士という異色のキャリアをもつ杉村の挑戦は、AIと人間が共創する「人間中心のAI」の未来を確かなかたちで示している。
杉村達也◎将棋AI「水匠」開発・将棋系VTuber。本業は弁護士(千葉県弁護士会所属)。独学でプログラミングを習得し、将棋AI「水匠」を開発して2025年に世界大会で優勝。ソフトは無料公開され、多くのプロ棋士が研究に活用する。VTuber「たややん」として最新情勢の解説も行う。



