かつて本誌はカルチャープレナー第1号として佐賀県出身の茶商・松尾儀助を紹介した。その松尾が拠点のひとつとした地が、八重洲・日本橋・京橋のエリアだ。なぜ松尾がこの地を選んだか。背景を知るには、歴史をさかのぼらなければならない。
大都市にはその街の玄関口、「顔」となる駅があるものだ。ニューヨークのグランド・セントラル駅にロンドンのキングス・クロス駅、パリのリヨン駅、北駅。
そして、どの駅の周りにも玄関口にふさわしい風景がある。グランド・セントラル駅を出れば摩天楼がいくつもそびえ、パリのターミナル駅はジョルジュ・オスマンが19世紀にパリを大改造したころのまま、石造りの街並みが広がる。
では、日本を代表するターミナル駅である東京駅はどうか。ここは「顔がふたつ」だ。ひとつは、皇居に面した丸の内口側。重厚な駅舎の前に機能的で洗練されたオフィスビルが立ち並ぶ。
一方の東側、八重洲口側。八重洲、日本橋、京橋のローマ字の頭文字をとって通称「YNK(インク)」と呼ばれるここにも、大企業が入る近代的な高層のオフィスビルが目立つ。見た目は西側と似ているかもしれないが、建物の高さだけを見ていては、街の“性格”まではわからない。
さて、本誌が日本のカルチャープレナー第1号と呼んだ松尾は、YNKエリアに拠点を構えた人物だ。1873(明治6)年のウィーン万国博覧会は欧州に日本ブームをもち込んだが、松尾はそのさなか、貿易会社を設立。ニューヨークとパリに支店を構えながら、蒔絵(まきえ)師など職人たちの工房を京橋や築地に設け、日本文化を輸出していた。

松尾儀助とウィーン万博
長崎で茶の輸出貿易に携わった経験を買われ、松尾(写真)はウィーン万国博覧会に随行。明治政府が国家として初めて公式参加した万博で、殖産興業・富国強兵政策のなかに位置づけられた肝入り事業だった。(松尾儀助写真提供:有田町歴史民俗資料館)
その松尾が生きたYNKエリアを今、注意して歩いてみるとどうか。
八重洲口前では東京駅前八重洲一丁目東地区市街地再開発事業「TOFROM YAESU(トフロム八重洲)」プロジェクトが進められ、2026年9月10日に51階建てのTOFROM YAESU TOWER(トフロム八重洲タワー)が開業し、存在感を放っている。
大規模な再開発ながら、周りには老舗の名店や居酒屋が軒を並べ、「奇跡の路地」とも呼ばれる赤ちょうちん街もあるなど路地裏文化も健在。さらには美術品や骨とう品のギャラリーがいくつも見つかる。YNKエリアはまた、なかなか“カオス”な面構えをしているのである。ビルのほうが、むしろ街に取り込まれたかのようだ。

TOFROM YAESU
総敷地面積約1万1,880㎡となるYNKエリアの新しいランドマーク。コンセプトは「人·時·場をつなぐ」。企業オフィスに、ショップやレストラン全68店舗、医療機関、劇場やバスターミナルが入る。 TOFROM YAESU TOWERが2026年9月10日開業。(写真提供:東京建物)
「酒飲みは、横に飲み歩くんですよ」
そう笑うのは、八重洲の中華料理の名店・泰興楼3代目の于延光。ジャンボ餃子で知られる店は1949年の創業以来、この地で商いを続けてきた。
あたりが暗くなれば、周辺のオフィスからビジネスパーソンが店になだれ込んでは、次なる酒席へと隣や向かいの店をへべれけになって歩く。于自身も店を閉めたあとに、知り合いの店に顔を出すこともある。「今日は会いたくないって人もいたりするけれどね」と粋な軽口も忘れないのが、いかにも長く商売を続けてきた店主らしい。

ゆう・えんこう
1968年生まれ。泰興楼3代目。中国・山東出身の祖父が1949年に八重洲に創業した中華料理店を継ぐ。店は名物のジャンボ餃子で知られ、本人は街の顔役でもある。
再開発プロジェクトにかかわるデベロッパーは東京建物だ。
安田善次郎が130年前の1896(明治29)年に日本橋呉服町で創業し、昭和4年から八重洲に本社を構えてきた同社は、東京駅前という一等地ながら多様な人や商いが共存する路地を残し、下町らしい魅力を生かしていく方針を尊重してきた。再開発に長年携わった担当者のひとりは「この再開発に関しては、ビルとしてではなく街として考えた」という。
とはいえ、誰もがうらやむような一等地であり、ブリヂストン、味の素など上場企業の本社が集まる、日本有数のビジネス地区でもある。そのなかで、再開発事業が顔が見える関係や混沌とした下町を感じさせるまちづくりにこだわる理由は何か。
答えを探るために、松尾が活躍した時代よりもさらに前、江戸時代のころの話をするところから始めたい。
「文化のゆりかご」となった江戸期のYNK
ご存じのように、江戸はベネチアのように舟運で栄えた街だ。物資は陸上ではなく、毛細血管のように街に張り巡らされた川や運河で運ばれた。
YNKエリアも、南北を京橋川と日本橋川が、東を現在の首都高都市環状線が走る楓川、西を江戸城外堀に囲まれ、江戸城下建設の物資の集積所としてスタートし、いつしか職人が集まる町となった。その名残は旧町名にとどめており、檜物町や上槙町といった木材名、鍛冶町や大工町、桶町、畳町などがその成り立ちを示している。
城下が出来上がると今度は日本橋の北側には魚市場、京橋には青物市場があったため、衣食住のすべてが揃う暮らしを支える街になり、ここに商人たちが加わった。
近江八幡からは蚊帳などの寝具を扱う西川が、伊勢からは現在、食品の卸として知られる国分が、紀州からは漆器を扱う黒江屋など、江戸でひと花咲かせようと商人たちが絡み合い、街は「文化のゆりかご」になっていく。
京橋には幕府の奥絵師である狩野派の屋敷が江戸の初期からあり、幕末になると定火消だった歌川広重が同じ京橋で「東海道五十三次」などを描いていた。近所には北辰一刀流の千葉定吉が桶町に道場を開き、若き日の坂本龍馬が通ったとされる。
江戸開府から250年、外堀の内側は大名屋敷として変化はなかったが、外側は絶えず新陳代謝を繰り返し、古い住人と新たな住人が絡み合いながら経済を拡大させ、文化を生み、それがまた人を引きつけていった。
職人の街でカルチャープレナーは生まれた
時代が変わり明治の世となると、いよいよカルチャープレナー松尾儀助が登場する。
松尾が同郷の大隈重信の勧めで参加したウィーン万国博覧会での日本館は、ジャポネズリー(日本趣味)と呼ばれる日本ブームの影響もあり大盛況。絹織物やべっ甲製品、七宝、漆器などの美術工芸品が好評で、なかでも扇子は飛ぶように売れ、あっというまに品切れになるなど、国際舞台に登場したばかりの日本の文化はたちまちビジネスになった。
なかには万博のために用意した日本庭園を建物ごと買い取りたいと申し出た英国の商会もあり、松尾と漆器商で後にジャポニスムブームの一翼を担った若井兼三郎のふたりが政府に代わって商いを仕切り、貿易会社「起立工商会社」を起業した。
さて工房がなぜ京橋や築地だったかといえば、もともと美術や工芸に携わる職人たちが、従来京橋や築地に多かったからである。
デザインを含め自分たちで制作し、しかも、職人の技術を生かして品物の質にもこだわった。その範囲は蒔絵や漆器だけでなく、刺しゅうや木地指物、塗りと幅広く、数少ない日本の輸出産業となった。同時に、松尾らの活動は維新によって武家からの需要が激減した職人たちにとっても恵みの雨となった。
起立工商会社は、その後もニューヨークやパリに支店を設け、カルチャープレナーの先鞭(せんべん)をつけたが、1891(明治24)年にその役目を終え解散。しばらくして松尾は亡くなるが、若井や通訳だった林忠正は京橋にオフィスを構え、美術品や工芸品、浮世絵などを欧米各国に伝え、印象派をはじめとするヨーロッパの芸術家に大きな影響を及ぼすこととなる。
下町の「守護神」を残す再開発
YNKエリアはその後も、新たな登場人物を迎えながら文化を生み続けた。北大路魯山人は関東大震災までは京橋に拠点を設け、かの“美食倶楽部”もここから始まった。
また、文人墨客がひいきにする店も多かった。そのひとつが、1850年創業の「割烹嶋村」。近くにあった出版社の春陽堂に原稿をもち込む作家のなかには若き日の永井荷風がおり、「早く売れて、嶋村の“うずら椀”を食べられるようになりたい」と本人がこぼしていた話が語り継がれている。
明かすのは、8代目店主の加藤一男だ。1946年生まれの加藤は幼いころの街の様子をおぼろげながらに記憶している。
「街には料亭や芸者さんの置屋、銭湯に映画館もあって、通りを歩けば三味線の音色が聞こえていて、高い建物といえば東京建物と髙島屋、白木屋くらい。街のすべてが遊び場でした」

かとう・かずお
1946年生まれ。1850年創業「割烹嶋村」8代目店主。東京駅前八重洲一丁目東B地区市街地再開発組合理事長として、TOFROM YAESU TOWERの再開発を主導した。
ところが東京駅に八重洲口ができ、1955(昭和30)年、日本橋の花街がなくなると街は少しずつ姿を変えた。
オフィスビルが増え、商いと生活が離れたことで下町の一体感が薄れていった。立地の良さからテナントも変わり続け、早く顔が見える街を取り戻さなければ、街は「ただのカオス」になってしまうと危機感も生まれた。それが再開発の機運を高めた。加藤は、東京駅前八重洲一丁目東B地区市街地再開発組合の理事長も務める。再開発の話が出たのは2000年前後だったという。
「区の方から『銀座を過ぎて京橋に入ると急に街に統一感がなくなり、明かりも少なくなる』と、言われたのがきっかけでした。町会としても住人の減少や建物の老朽化といった問題が起きていたので、いい機会だと決断したわけです」
当初7年かかるといわれた再開発は、約250人もの権利者や地元関係者と合意形成を重ねてきたことで、約25年超の期間を要した。
再開発を経ても、この街らしくあるにはどうすべきか。加藤や于をはじめ地元住民が出した答えのひとつが、地元の祭りである「山王祭」の文化を大切に継承すること。江戸の三大祭りのひとつで2年に一度行われる山王祭は、普段は交じり合わない世代や周辺企業を巻き込む、いわば、街のカオスをエネルギーに変えてきた行事だ。
TOFROM YAESU TOWERの1階広場「檜物町スクエア」には町会のみこしが飾られている。加藤に言わせれば「みこしは街の守護神であり、プライドなのです」。
カルチャープレナー集合!文化発信、再び
混沌を残しながら文化を育んできたYNKエリアは、新しいランドマークとなったTOFROM YAESUを中心に、YNKエリアを再び文化の発信地にする計画も動いている。
タワーに入る全68の店舗やギャラリーのなかには、街の文化に惚れ込んだカルチャープレナーたちの姿もある。茶道家でTeaRoom代表取締役CEOの岩本涼、アート・工芸作品のプラットフォーム「B-OWND」を創設した石上賢らだ。近くには、磯焼けにより減少しつつある海藻の新しい食べ方を提案するシーベジタブルの常設店もオープン。東京建物としても「ここから“本物”の文化を発信、提供していきたい」と意気込む。

YNKに誕生した文化発信拠点
B-OWNDによる新ギャラリー(上写真。Ⓒ2026 B-OWND)では、 作品の展示・販売のほか、 TeaRoomと協働する茶会も予定。「シーベジスタンド」は海藻ラーメンなど海藻を身近に楽しめる料理を提供する新たな文化発信拠点だ。(写真提供:シーベジタブル)
職人の街として始まったYNKエリアは、商人や料理人、文人に芸者など、時代とともに新たな人々を迎え入れ、古きも新しきも入り乱れるカオスな街であり続けた。だからこそ、活気が生まれ、文化が育った。これが、歴史が育んだ街の“性格”であり、次世代に引き継ぐべき「顔」である。
松尾たちが活躍した明治初期以来の日本ブームに沸く今、YNKエリアは日本の玄関口を今度はどう彩るか。街のカオスがまた新しいエネルギーを生み出すに違いない。
八重洲や日本橋・京橋一帯「YNK」エリアのイメージムービーを公開中。さまざまな人々が共創する様子を音楽の「Session」になぞらえた。
YNK SESSION MOVIE
監督 : 野田智雄/音楽 : 吉岡たく
<協力>
野永喜三夫(日本橋ゆかり)/伊藤東凌(臨済宗建仁寺派 両足院) /岩本涼(TeaRoom)/八木幣二郎/一般社団法人江戸消防記念会/T3 PHOTO FESTIVAL/白木屋伝兵衛/TOKYO SQUARE GARDEN/TOKYO IDEA EXCHANGE



