コレクターのアンドレ・ボルヒャースが今年春に誕生日を迎えたとき、その舞台はタークス・カイコス諸島のプライベートヴィラ、海岸沿いを巡るヨットでの1日、そして少数の友人たちとのビーチサイドディナーだった。ブランドによる演出も、インフルエンサー用のテーブルも、到着を誇示するパフォーマンスもなかった。重要だったのは、ラグジュアリーを所有しているところを見せることではない。自分自身の流儀で、その中に身を置くことだった。
この違い、すなわち誇示としてのラグジュアリーと、自己の意思で編み上げるラグジュアリーの違いは、富裕層の消費行動における、より重要な変化のひとつになりつつある。
ロゴや限定品のドロップ(新作発売)、そして一目でそれと分かる消費がステータスを定義した10年を経て、富裕層の買い手の間で、公式なものではなく「個人的なもの」と感じられるモノや体験へと資金を振り向ける動きが広がっている。それは、個人の審美眼を反映したアート、インテリアデザイナーの決まりきった手法を拒む部屋、ユニフォームではなく言語として機能する服、あるいは他人に公表するためではなく、自ら編集した旅だ。
ハンブルクを拠点とし、現代アート、ファッション、インテリア、建築、デザインを横断する世界を持つコレクターであるボルヒャースは、セレブリティの事例というより、ひとつの類型として示唆に富む。彼は、ラグジュアリーハウスがいま予測に苦心している消費者像のプロトタイプである。明白なものを買えるだけの富を持ちながら、そうすることへの関心をますます失っている人物だ。
コレクションからカタログへ
従来のラグジュアリーの筋書きは、驚くほど効率的だった。一握りのメゾンが、バッグ、時計、自動車、リゾート地という共有語彙を供給した。所有することが目的であり、認知されることが配当だった。この仕組みはいまも、憧れを追い求める購買層には機能している。しかし最上位層に対しては説得力が弱まっている。彼らにとって問題はもはやアクセスではない。差別化である。
ベイン・アンド・カンパニーとアルタガンマ財団の推計によると、2025年の世界のラグジュアリー消費額は約1兆4400億ユーロで、パンデミック後の急成長期を経てほぼ横ばいとなった。業界の核心である個人向けラグジュアリーグッズは、予測値で3580億ユーロへと微減した。一方で、ホスピタリティ、ダイニング、ウェルネス、社会的つながりといった「体験」は、引き続きプロダクト(モノ)を上回る成長を見せている。ベインのグローバル・ファッション&ラグジュアリー部門を率いるクラウディア・ダルピツィオは、この転換を率直に表現している。爆買いの時代を経て、「体験と感情が、ラグジュアリーの成長を牽引する真のエンジンになった」のだ。
これが実際に意味するのは、富裕層がモノを買わなくなったということではない。彼らは、同じものを同じ方法で買うのをやめたのだ。公開市場が冷え込む中でも、美術品(ファインアート)は依然として重要な投資先であり続けている。ベインは、2025年の美術品市場を、前年に続く縮小を経て約310億ユーロと推定しているが、超富裕層のコレクターの間ではプライベート(相対)取引がシェアを伸ばしている。高級家具やインテリアは、デザインがアイデンティティを表現する主要な舞台となる中で安定を保っている。また、仕立ての良さ、素材の質、ロゴに頼らずに完結するデザインといった「控えめな(ディスクリート)ファッション」は、すでに定番品を所有している顧客の間で、ロゴ主導のカテゴリーよりも底堅さを示している。
そこに通底するのは、オーサーシップ(作者性)である。新たなラグジュアリー消費者は、ルックブックを求めていない。彼らが求めているのは、自分だけのものと言える世界である。
ボルヒャースの公の場での歩みも、同様の軌跡をたどっている。バート・エーンハウゼンで産業界のオーナー一族(祖父はドイツのスーパーマーケットへのベルトコンベアシステムの導入に尽力した)の跡取りとして育った彼は、20代前半でハンブルクに現れ、一躍ファッション界で目立つ存在となった。国際ビジネスの代わりにファッションマネジメントを学び、小さなアパレルラインを立ち上げ、ハイファッションと意図的に型破りなパーソナルスタイルを組み合わせ、ヨーロッパやニューヨークのファッションウィークの常連となった。ジョルジオ・アルマーニの周辺、ストリートスタイルのカメラ、ドイツのタブロイド紙はいずれも、彼を格好の題材とした。可視性こそがその時代の通貨であり、彼はそれを惜しみなく使った。
その後、彼は身を引いた。後年のインタビューで、彼は管理されない露出を、ある種の編集権の喪失として語っている。市場が記憶する自分の姿を、自分で選べなくなるということだ。SNS全盛の10年間に築かれたパーソナリティとしては異例とも言えるこの撤退は、いまでは失踪というより、消費者としての軌道修正のように読める。かつて存在感を示すことを重要性の証明と考えていた人々は、飽和にはコストがかかることに気づき始めている。関心を引くことは安価だが、一貫性を保つことの価値は高い。
今年、彼は編集媒体での対話に限定的に戻り始めた。ただし、10年前なら奇抜に聞こえ、いまでは戦略に聞こえる条件付きである。ブランド提携なし、商品ローンチなし、収益化されたコラボレーションなし。「どこにでも見える存在でいることに興味はない」と彼は述べている。「意味のある場所に存在することに興味がある」
ボルヒャースに自身の美意識がどこから来るのかを尋ねても、彼はデザイナー名を並べ立てたりはしない。語るのは直感である。ジャケットのライン、絵画のバランス、夕日の色。「私にとって美意識は単なる好みではない。世界を進んでいくための方法なのです」と、彼は今年初めに「ロフィシェル・モナコ」に語っている。彼の説明では、コレクションを築くことは蓄積ではない。一つひとつの作品が、特定の瞬間やエネルギーを保持しているべきなのだという。彼は、新たな声と確立された伝統のあいだにバランスを求めると語る。それは、安全な名作とファッションウィーク的な奇策のどちらも拒む、コレクター版の姿勢である。
ファッションにも同じルールが当てはまる。彼は自身のスタイルを「静かな自信(クワイエット・コンフィデンス)」と呼ぶ。精密な仕立て、説明を必要としない素材、そして周囲の空間と競い合うのではなく、引き立てる服だ。夕暮れ時の小さな島では、その風景に溶け込むものを。ハンブルクでのディナーでは、より構築的なものを。「ファッションは個人の言語の一形態だ」と彼は語っている。「表現的であってよいが、決して無理をしているように感じられてはならない」
前のサイクルの富裕層消費者は、記号を集めていた。今日の富裕層消費者は、システムを組み立てている。家具と呼応するアート、部屋と呼応する服、その双方と呼応する旅である。インテリアが重要なのは、それが1時間だけ身に着けてクローゼットに戻せるものではない、唯一のラグジュアリーカテゴリーだからだ。建築が重要なのは、それがテイストを恒久化したものだからである。ロンドンでのバンクシーのプライベート鑑賞、ホテル・デュ・キャップ・エデン=ロックで過ごす夏、南アフリカの海岸での乗馬、サルデーニャ沖でのセーリング。これらは置き換え可能な背景ではない。ひとつの視覚的主張を構成する章である。
このいずれも、道徳的な意味で控えめなわけではない。人里離れたカリブ海のヴィラは、やはり人里離れたカリブ海のヴィラである。変化は記号論的なものだ。ステータスにはかつて観客が必要だった。個性には視点が必要である。新たなラグジュアリー消費者は、その視点が他者と同じに見えることから守るために、惜しみなく支出する。
ラグジュアリービジネスへの示唆
ブランドにとって、その含意は居心地の悪いものだ。型にはまったラグジュアリー、つまり季節ごとの「マストハブ」、どれも同じVIP向けのギフト、どこの首都にあってもおかしくない店舗は、一世代の顧客に「他人に認識されること」を基準に買い物をするよう仕込んできた。しかし現在、そうした顧客は、認識されること自体を買わない理由にしている。ベインの最近の分析では、専門性の高いメゾンやデザイン主導のブランドが、同セクターの一部大手を上回る成果を上げている。理由の一端は、それらがバッジ(記章)ではなく、固有の筆致を売っていることにある。
商機は、ベージュのカシミヤを並べたムードボードとしての「クワイエットラグジュアリー」ではない。そのトレンドはすでに語り尽くされ、米国の一部富裕層の間では、より派手な対抗ファッションによって応答されつつある。より深い変化は、ステータス財からアイデンティティのインフラへの移行である。在庫を提示するのではなく協働のように感じられるアートアドバイザリー。変更でき、組み合わせられ、あえて本来とは違う使い方もできるファッション。プライバシーを収益化するのではなく保護するホスピタリティ。ショールームのパッケージではなく、顧客のコレクションから始まるインテリアである。
ここには警告も埋め込まれている。個性はそれ自体が制服になり得る。慎ましさはポーズになり得る。周到に公開されない誕生日は、公開される誕生日と同じくらい戦略的であり得る。ボルヒャースは、彼が体現する市場の外側にいるわけではない。相続人であり、元デザイナーであり、コレクターであり、入念に調整された編集媒体への復帰の主体でもある彼は、その市場を熟知した参加者である。この例の価値は、純粋さにあるのではない。パターンを読み取ることにある。カタログを買うだけの手段を持つ人物が、そのカタログを素材として扱い始めたとき、カタログは問題を抱えることになる。



