世の中には、黙ってさえいれば逃げ切れた、という人がいる。「キーフィー・D」ことドゥエイン・デイヴィスは、その殿堂入りのトップ候補だろう。
普通なら墓場まで持っていきたい過去を、元ギャングのこの男は堂々と「商品」にしてしまった。テレビカメラの前で自らのギャング生活を語り、雑誌の誌面を飾り、往年の武勇伝を惜しげもなく披露した。
極めつけは自伝の出版だ。街を仕切った男の栄光の記録、そのつもりだったにちがいない。ところがその1冊には、27年もの間、誰も解決できなかった殺人事件の「告白」まで、ご丁寧に書き込まれていたのだ。
当時、世界的ラッパーだった、2パック(トゥパック・アマル・シャクール)射殺事件である。自分の名前を売るために書いた本が、そっくりそのまま逮捕状の中身になってしまった。
2023年に、デュエイン・デイヴィスは自らの言葉によって手錠をかけられた。「喋りすぎた男」とでも言うほかない。
27年も未解決のまま放置される
そして、話はそこでは終わらなかった。2026年6月末、米国ラスベガスの法廷は、その「自伝という名の自白」に法的なお墨付きを与えた。デイヴィス(63歳)が書いたとされる回顧録『Compton Street Legend』を、裁判の証拠として使ってよいと、判事はそう認めたのだ。
3年前、彼の逮捕に繋がった1冊は、いままた法廷で本人の喉元に突きつけられた。8月10日に幕を開けた裁判で、検察側が最大の武器に据えたのは、目撃者の証言でも、決定的な物証でもなく、被告本人が世に売り出した「告白」そのものだったのだ。
事件を振り返ってみよう。殺人が起きたのは1996年9月7日の夜、当時25歳だった2パックは、ラスベガスのMGMグランドで行われたマイク・タイソンの試合(対ブルース・セルドン)を観戦した帰り、赤信号で停まった車の助手席で銃撃され、6日後に息を引き取った。
運転していたのは2パックが所属していたデス・ロウ・レコードのCEO、シュグ・ナイト。米国西海岸のヒップホップの頂点にいた2人を狙った、走行中の車からの銃撃だった。
背景にあったのは、西海岸のロサンゼルス圏で特に治安が悪いとされるコンプトンを拠点とする2つのギャングの対立と、その夜の1件の乱闘だ。タイソン戦のあと、MGMグランドのロビーで2パック側の人間が、デイヴィスの甥を袋叩きにした。
その報復として、数時間後の2パック銃撃が起きたと検察は見ている。とはいえ、デイヴィス自身は引き金を引いていない。彼は拳銃を手に入れ、後部座席の仲間に渡した「指示役」だったとされる。
ラスベガスという街のヒエラルキーの上に立ち、計画を描いた男、それが検察の描くデイヴィス像である。
奇妙なのは、これほど有名な事件が、なぜ27年ものあいだ未解決のまま放置されたのかという点だ。犯行は数百人の目撃者がいる繁華街のすぐ近くで起きた。にもかかわらず、誰も口を割らなかった。
撃たれた2パック本人も、隣にいたシュグ・ナイトも、「密告は恥」という街の掟を守り、警察に何も語らなかった。犯人を特定できると言った証人は次々と命を落とし、あるいは警察からも無視された。
捜査そのものの杜撰さも長く批判され、若い記者が事件から1年足らずで真相にたどり着いていたにもかかわらず、その仕事は当局からはほとんど顧みられなかった。
この奇妙な「沈黙」には、ラスベガスという街の事情も影を落としていたのではないかと言われている。ギャンブルと観光で成り立つ街にとって、有名ラッパー射殺という血なまぐさい話題は歓迎されざる事件だった。
事件が長く注目を浴びることは、街の商売にとって都合が悪い、そんな空気が捜査の熱を静かに冷ましていったのだという指摘もある。事件から1年後、捜査を率いた刑事は「永遠に解決しないかもしれない」と漏らしていた。



