平打ち麺のルーツは満洲式餃子
では、同店の満洲式餃子とジャジャ麺とはどのようなものなのか。頃末さんは自ら店の厨房に立ち、筆者に調理の実演をオンラインで見せながら、次のように説明してくれた。
「うちの満洲式の皮づくりというのは、小麦粉の生地を麺棒で大判に伸ばし、型で抜く製法が特徴です。この皮は弾力があってよく伸び、ひだを寄せずに包め、喉越しのいい水餃子に適しています。
実は、ジャジャ麺も餃子の皮と同じ生地を重ねて包丁で切ることで、無駄なく平打ちの麺をつくります。これが、当店の平打ち麺のルーツです」
一般に中国の餃子が黒酢で食されるのを知っていた芳夫さんだが、その香りに馴染めない日本人向けに味噌ダレを考案した。こうして「味噌で食べる餃子」が店のスタイルとなったのだという。そして、それはジャジャ麺の味噌づくりにも活かされた。
だが、頃末さんの話はこれで終わらなかった。彼は自分の父親と家業の継承をめぐる葛藤があったことを語り始めた。
2代目となる頃末さんの父親は、1940年(昭和15年)の満洲の生まれ。「祖父は敗戦後に満洲で逃げ回るときも、日本に引き揚げるときも、足出まといになるから息子は中国に置いていけと周囲から言われてもガンとして聞かず、自分の背中に縛りつけ、這いずり回りながらも、守り切ったと聞いています」と頃末さんは話す。
ところが、芳夫さんが必死の思いで連れ帰った息子(頃末さんの父親)は、若い頃から素行不良で、家業に多くの困難をもたらしたのだという。頃末さんから見ても2人は仲の悪い親子だった。こうしたことから、芳夫さんは3代目に期待をかけるようになり、幼稚園の頃から店に遊びに来させ、満洲の話と餃子づくりを伝えようとした。
頃末さんは、そんな幼少期の思い出をいまも懐かしく思い出すと話した。だが、店の営業不振や父による家庭内暴力などから、中学以降は祖父や父のいる店を訪ねるのは避け、水泳に打ち込み、スポーツ推薦で名古屋の大学へ進学した。家から物理的、心理的距離を置きたかったからだ。
芳夫さんが亡くなったのは、頃末さんが25歳のときだった。生前の芳夫さんは病床で「店を継承してくれ」と懇願したが、彼はこれを拒絶したのだという。後年、「自分はなぜそのとき店を継ぐと言えなかったのか。それだけが、唯一の後悔だ」と語る。そして、その1年後、今度は父親が亡くなった。
父の死後、頃末さんは母と従業員から嘆願され、店に戻ることを決意する。しかし、その直後、阪神淡路大震災(1995年)が起こる。父が火災保険に未加入だったため、「その後、しばらく一家は極貧生活を経験することになった」という。
「でも、ぼくは思うのです。父が家業にまじめに取り組もうとしなかった、いわば“空白の30年”、店の“時間が止まった”ことで、結果的に祖父が伝えた満洲式の製法をそのまま継承することができたともいえるのです」(頃末さん)


