ただし、ここには明確な一線がある。質問は誠実なものでなければならない。自分が妥当だと信じる推論を相手と一緒にたどることと、誤りだと分かっている結論へ道を敷いていくことは、外から見れば同じ手法に見えても、別の行為である。
習慣2:相手が聞きたい言葉を口にする
お世辞は、操作の典型例とされる。誰もが反論しない例を挙げたいときに、まず思い浮かべるものだ。だからこそ厄介なのだが、お世辞をうまく使いこなす力は、社会的知能の低さではなく高さと相関する。
ここで問題になるのは、心理学者が数十年にわたって研究してきた「取り入り(ingratiation)」という概念、つまり印象管理の一形態だ。研究が繰り返し示すのは、これが見た目より難しいということである。褒め方が場面に対して重すぎたり、相手が内心では気にしていないことに向けられていたりすると、褒め言葉はうまく届かない。的を外せば、見え透いた行為として受け取られることもある。うまく決めるには、相手がひそかに抱いている不安の在り処と、どこまでなら信じてくれそうかを見極める必要がある。
向社会的な嘘に関する研究も、別の角度から同じことを示している。2022年に学術誌『Current Opinion in Psychology』に発表された研究によれば、この種の嘘は、真実が相手に強いる代償に敏感な人ほど多くつく傾向があり、正直な答えのほうがむしろ有益だった場合には、大きな逆効果を生む。
「今日のプレゼン、良かったですよ」と言う人、あるいは「気づかなかった」と言う人は、たいてい自分の利得のためにそう言っているわけではない。その特定の瞬間に真実が相手にもたらす代償を計算し、それだけの価値はないと判断しているのだ。この計算は、本当のことを口にするよりも、少ないどころか多くの労力を要する。
歯に衣着せぬ発言は、時に真実に対する真摯な態度の表れでもある。だが、ときには単に手間がかからないだけのこともある。たまたま正確なことをそのまま口にするだけなら、目の前の相手についてほとんど考慮する必要がない。
この2つの習慣に共通するもの
どちらの習慣も、本質的には同じ作業だ。相手の心のモデルを組み立て、それに応じて自分の行動を決める。この能力自体には道徳的な中身はなく、判断を決めるのは、そのモデルが最終的に誰の利益に仕えるかである。
相手に恥をかかせないためにこれを使う人と、譲歩を引き出すために使う人は、正反対の目的のために同じ機構を働かせている。だからこそ、この行動は良し悪しを見分ける手がかりとしては貧弱なのだ。他人を一切気にかけないぶっきらぼうな人を信用してしまい、皆のことを考えて振る舞う気配りの人を疑ってしまうこともある。
より優れた見極め方は、時間がかかるし実行も難しい。人はこの人物と関わる前より良好な心理状態でその場を離れているだろうか。この問いに答えるには何カ月もかかる。だからこそ、誰もが手法のほうを指差してしまうのだ。
自分の中にある静かで計算高い側面は、果たして「策士」なのか「策謀家」なのか、気になったことはないだろうか。科学的知見にもとづくテスト「マキャベリズム尺度(Machiavellianism Scale)」で、その習慣において自分が実際にどこに位置するのかを確かめてみてほしい。


