大橋さんの話から、一つの理論を思い出していました。エフェクチュエーションです。経営学者のサラス・サラスバシーが、実績のある起業家たちの思考パターンを研究してまとめたもので、市場を予測し目標から逆算して計画を立てる従来の経営論とは逆のもの。
優れた起業家は手元にあるものから出発し、逆算ではなく積み上げで動いている、というのがその骨子です。理論には 1.「手中の鳥」2.「許容可能な損失」3.「クレイジーキルト」4.「レモネード」5.「飛行機の中のパイロット」という5つの原則がありますが、名前だけ聞くとピンとこないかもしれません。大橋さんの話に当てはめると、急に輪郭がはっきりします。
1.「手中の鳥」の原則が言っているのは、手元にあるものから始めよということです。大橋さんは市場調査をしたわけでも、外部から経営資源を集めたわけでもありません。枡づくりの技術と、IBM時代の飛び込み営業の経験。この2つを組み合わせただけで、酒蔵への直接営業という最初の突破口ができました。その後のさまざまな商品開発も、やはり自社の開発資源を活かしたものばかりです。
2.「許容可能な損失」の原則は、失敗しても構わない範囲で試すという考え方です。つまりお金をかけずに小さく始める、ということ。色をつける、背を低くする。五角形や八角形の枡も、高額な設備投資ではなく安価な機械の組み合わせでつくっています。大きく張らず、小さく試して当たったものだけを伸ばす。この感覚が、コースターから合格枡まで、次々に新しい商品を生み出す土台になっていました。
3.「クレイジーキルト」の原則とは、パッチワークの布をイメージしてください。様々な出会いやつながりをも味方にしていくということ。要は営業先を仲間にしていくという発想です。雑貨卸などからの「こんなものはつくれないか」という依頼は、大橋さんが売り込んだ結果ではなく、相手が持ち込んできた宿題でした。バイヤーの引っかかった一点にしがみつき、意見をもらいながら形にしていく。営業先はいつのまにか、敵ではなく共同開発者になっていたわけです。
4.「レモネード」の原則は、逆境を新しい機会に変えるという考え方です。酒需要の縮小がコースターや食器としての枡を生み、一等地などには店を出せないという制約が工場敷地内の直営店になり、結果として狙わぬメディア露出を呼び込みました。そしてコロナ禍による七十五パーセントの売上減が、あるデザイナーとの出会いを通じて、電子レンジ対応の枡のおひつという、会社を救う商品につながっています。逆境そのものを歓迎していたわけではないでしょうが、逆境が来たときにそれを潰れる理由にしなかったという点は、一貫していました。
5.「パイロット」の原則。飛行機のパイロットのように、操縦桿から手を離さないということ。つまり、先の読めない環境でも、自分にできることに集中し続けるという意味です。景気や生活習慣の変化の中で、自然に考えれば枡は衰退産業。諦めたとしても不思議ではないでしょうし、大橋さんにはどうにもできません。それでも、諦めることなく自分の手で動かせる範囲のことに、地道に手をつけ続けてきた。5600万円から3億4000万円という数字の裏側にあるのは、突き詰めればそれだけのことなのかもしれません。
大橋さんはエフェクチュエーション理論を知っていたわけではありません。しかし理論を知らなくても、経営者は結果としてその通りに動いていることがあります。市場が縮んでいく業界で、何を諦め何を守るかを考えるとき、大橋さんが積み重ねてきたのは壮大な逆転劇ではなく、目の前に来たものを断らずに拾うという選択の連続でした。自社の置かれた状況が厳しく見えるときほど、遠くの正解を探すよりも、今手元にあるものと、今日会う相手が発した一言に、次の一手が隠れているのかもしれません。


