「日本の本格的なワイン造りのルーツ」と聞いて、多くの人は山梨県を思い浮かべるだろう。実は、その山梨県甲州市と共に「日本ワイン140年史」として“日本遺産”に共同認定されているもう一つの街がある。茨城県牛久市だ。現存する「日本初の本格的フランス式大規模ワイン醸造場」は、実はこの地にあるのだ。
東京駅からJR常磐線に乗り、揺られること約1時間。都心の喧騒から解き放たれた牧歌的な牛久駅に降り立ち、10分も歩かないうちに、緑豊かな敷地の向こうに重厚な赤レンガ造りの洋館が突如として現れる。1903年(明治36年)、実業家・神谷傳兵衛によって建てられた国指定重要文化財「牛久シャトー」だ。

敷地内には愛犬を連れて散歩を楽しむスタイリッシュな近隣夫婦の姿もあり、歴史的遺産でありながら地域に溶け込む穏やかな空間が広がっている。だが、その一角に設けられた講義室へ足を踏み入れると、空気は一変していた。
7月上旬、じりじりとした日差しのもとで開講した「日本遺産 日本ワイン140年史ワインアカデミー」。3時間におよぶ長丁場の講義中、参加者は終始集中してメモを取り、熱のこもった質問が飛んでいた。
なぜ明治期の日本において、東京から離れた茨城の地にこれほど大規模なシャトーが建設されたのか。そして今、この歴史的な場所で何を教えているのか。そこには、現代のあらゆるビジネスに通じる示唆が隠されていた。
山梨とは異なるアプローチ。巨大プロジェクトとロジスティクス
日本の本格的なワイン造りの歴史は1877年、山梨県勝沼から二人の青年がフランスへ渡ったことに始まり、来年で150年の節目を迎える。当初、明治政府は殖産興業の一環としてワイン造りを推奨していたが、やがて政策の優先順位が変わり、国としての支援は急速に萎んでいった。
この国の挫折を受け止め、民間資本として事業をスケールさせたのが、山梨や茨城(牛久)の起業家たちである。同じ「ワインの国産化」という目標に向かいながら、両者は全く異なるアプローチをとった。

山梨が地元のブドウ農家と手を取り合いながら地域全体で産地を育てていったのに対し、神谷傳兵衛が牛久で仕掛けたのは、広大な土地を確保し、ブドウ栽培から醸造、瓶詰めまでをすべて自前で完結させるという、当時としては規格外の巨大プロジェクトであった。
浅草の「神谷バー」や「電気ブラン」で知られる神谷は、まず日本人の口に合う甘味ワイン「蜂印香竄(こうざん)葡萄酒」を大ヒットさせ、その豊富な資金を原資として本格シャトーの建設へと乗り出した。
建設地に牛久が選ばれた最大の理由は、巨大消費地である東京への「物流(ロジスティクス)」にある。当時は常磐線が開通した直後であり、なんと醸造所の目の前まで鉄道の引き込み線が直接敷設されていたという。出来上がった製品を直ちに列車へ積み込み、東京へ輸送する━━。当時はシャトーの周囲に100ヘクタールを超えるブドウ畑が広がっていたといい、今も周辺に残る「神谷町」や「ぶどう園通り」という名称が、当時の事業の大きさを物語っている。



