梁さんと金監督の運命的な邂逅
最後に筆者(中村)のことも少しお話したい。
いま筆者は「東京ディープチャイナ研究会」というガチ中華を楽しむSNSコミュニティの代表をしているが、もともと編集者であり、もの書きだ。
専門ジャンルの1つが、旧満洲(中国の遼寧省や吉林省、黒龍江省、内モンゴル自治区などを含む東北地方)やウラジオストクのある極東ロシアなど、戦後多くの日本人が忘れていた日本海の向こう側に広がる世界の今日について書くことだ。
旧満洲や極東に関心を持つようになった背景には、筆者の祖父母や親戚筋の実に多くの人たちが、戦前、満洲で暮らしていたことがある。
その話を祖母から聞いていたので、子供の頃からいつか現地を訪ねてみたいと考えていた。それが実現したのは、大学に入学した1980年代のことで、当時の中国は改革開放の時代を迎えていた。
それだけなら、よくある学生時代の旅行体験で終わったかもしれない。だが、卒業後すぐの1980年代後半になって、いまでいう「新華僑」と呼ばれる中国籍の人たちが数多く来日するようになった。
学生時代の旅行中、現地で知り合った人たちもそこには含まれていた。いったい彼らはなぜ来日したのか。その時代的・社会的背景や個別の事情、そしてその後の彼らの人生が、身近な出来事として自分の目の前で生起していくのを眺めていくうちに、気がついたら、こうして見届けることになっていたのである。
中国社会の実情を少しだけ垣間見ていたので、最初は筆者と同世代である彼らの突然の来日に戸惑った。なぜなら、当時の中国は貧しかったとはいえ、彼らはそれまでの人生を投げ捨て、一から日本で始めることを選んだ人たちだったからだ。
それは、近年来日している若い中国人留学生の境遇とはまったく違うものであった。
ここでは多くを書き切れないが、そうした経緯も重なり、同世代である金監督や梁さんとの出会いは、筆者にとってもう1つの重要な意味を持った。なぜなら、2人はともに戦後満洲に残された残留孤児である日本人の母親から生まれた「2世」だったからだ。梁さんの父親は漢族だが、金監督の父親は満洲族だった。
筆者の母親は、幼少期、約1年間の北朝鮮での難民生活を経て、祖母と一緒に日本に引き揚げて来ていた。だから、自分はこうしてふつうに日本で育ったのである。
これは筆者の一人勝手な感傷に過ぎないのだろうが、こうしていま日本で2人とともに時間を過ごしていることがかけがえのないことのように思えてくるのだ(きっと2人はそんなこと、少しも考えていない違いない)。
こうしたことが、今回このイベントを企画した理由である。これを機に2人を引き合わせたかったのだ。何より梁さんは梁餐泊という、2人の運命的な邂逅に、これほどふさわしい場を用意してくれたのだからと。
上映後、食事を前に、筆者は「なるべく短めに」と断って、次のような話をした。
「ぼくはこの作品をこれまで何度か観ましたが、満洲族の血を引く金監督が、なぜ10年以上の年月をかけて、サマンを求めて満洲各地を訪ね歩くことになったのか、それを思うといつも胸が熱くなります。
そして、今日の中国における少数民族の置かれた状況を思うとき、この作品が2010年代に撮影されたことの意味は大きいといえます」
味坊農園の採れたて野菜や羊肉を使った料理の数々は、まさに満洲の味そのもので、これほど映画の世界とマッチした食の体験はなかったと思う。


