キャリアの大半において、私は「自信に満ち、確信を持ち、常に答えを用意している」というプロフェッショナルとしてのペルソナを装っていた。それは、ある激動の時期を迎えて維持できなくなるまでは、うまく機能していた。しかし、その危機の先で気づいたのは、オーセンティック・リーダーシップ(本物のリーダーシップ)とは、完璧なイメージを作り上げたときに始まるのではなく、それを演じることをやめたときに始まるということだ。
ペルソナがもたらす見えない代償
どのリーダーも、何かしらの仮面をかぶっている。冷静沈着なエグゼクティブ、先見の明があるビジョナリー、異端児、あるいは弱みや焦りを決して見せない人物などだ。これらのペルソナは役に立つ。しかし同時に、それらは気づかないうちに心身を消耗させ、率いるメンバーとの間に距離を生み出す。
チームは、言葉にできずとも、演じられた姿と本人の実像との間にあるギャップを察知する。そして、そのギャップが信頼を損なうのだ。さらに悪いことに、イメージの維持にエネルギーが費やされると、本来の業務に割くエネルギーが減ってしまう。私自身、周囲にどう見られているかをコントロールしようとすればするほど、その場に集中できなくなっていることに気づいた。
本物のリーダーシップとは「過剰な自己開示」ではない
仮面を外すとは、あらゆる感情をぶちまけたり、会議を告白の場に変えたりすることではない。本物のリーダーシップとは、もっと限定的で律せられたものだ。それは、重要な局面において、自分の内面と外面を一致させることを意味する。つまり、自分が本当に考えていることを口にし、わからないことはわからないと認め、スローガンだけでなく日々の意思決定に自らの価値観を反映させるということだ。本物であること(オーセンティシティ)とは、自己開示ではなく「一貫性」である。プロフェッショナルであることと、純粋に真摯であることは、十分に両立できるのだ。
ありのままの自分で率いる方法
まずは小さく、具体的な一歩から始めよう。次に答えがわからない場面に直面したときは、知ったかぶりをせず、率直にそう伝えよう。次に反対意見があるときは、同調してうなずくのではなく、穏やかに、かつ明確に自分の考えを述べよう。次にミスをしたときは、誰かに指摘される前に自ら認めよう。これらはどれも、わずかなプライドを犠牲にするが、それ以上の大きな信頼をもたらす。時間が経てば、人々は役職という肩書ではなく、あなたという個人に対して応えるようになる。これこそが、永続的な影響力をもたらす唯一の土台だ。
ペルソナを捨てることで、自分が弱く見えてしまうのではないかと不安に思うかもしれない。しかし、私の経験では、まったく逆のことが起こる。演じられた確信はもろいが、保たれた誠実さは強い。人々は、イメージを管理しているリーダーと、単に真実を語っているリーダーの違いを見抜くことができる。そして、後者のリーダーのためなら、はるかに困難な状況であっても喜んでついていくものだ。
ある小さな習慣が、どんなフレームワークよりも私を助けてくれた。それは、読んでいない本や資料を読んだふりをするのをやめ、「しっかりした意見を持てるよう、目を通す時間を1日ほしい」と言うようにしたことだ。最初の数回は、自分の弱さを認めているように感じられた。しかし、実際に起きたのは、周囲がより的確な問いを投げかけてくれるようになったことだ。なぜなら、彼らは私がすでに結論を出しているとは思わなくなったからだ。本物のリーダーシップとは、壮大な脆弱性の開示というよりも、持っていない能力を偽ることを拒む「100の小さな決断」の積み重ねなのだと気づいた。
最近では、自分自身の行動に気づくようになった。役に立つためではなく、自分をよく見せるために意見を美化していると気づいたとき、私は立ち止まり、よりシンプルで真実味のある言葉で言い直すようにしている。そのたびに自尊心は少し痛む。しかし、それこそが、人々が私の演じる役割ではなく、私が本当に考えていることを信頼し始める瞬間なのだ。
演じることで、ある程度のところまではいけるかもしれない。しかし、それには限界があり、その限界とは疲弊と孤立だ。本物のリーダーシップは、ペルソナという見せかけの洗練さを手放す代わりに、信頼されることによる持続力を手に入れる。この選択を積み重ねることこそが、いざというときに人々があなたについていく原動力となるのだ。



