『The Smallest of Joys』は、ヴィンテージのティーカップや玄関先のシナモンロールを描いた、心温まる本のように見える。しかし実際には、喜びがどこに宿るのか、それは誰のためのものか、そして何がその邪魔をしているのかについて、厳密かつ根源的な議論を展開した一冊なのだ。
私たちはおよそ1万通りもの方法で、喜びとは報酬だと教え込まれてきた。受信箱を空にし、子どもに食事を与え、親に電話をかけ、運動を耐え忍び、そして世界を少しでも癒した後にやって来るもの。喜びとは、獲得し、最適化し、うまくやれば起きている時間の大半に維持しておくべき、輝かしい感覚だと。
その結果生まれたのが、高い成果を挙げ、大きな志を持つリーダーたちが、喜びを他のあらゆることと同じように扱う光景だ。管理すべきプロジェクト、達成すべき指標、より重要なことを片づけた後にようやくたどり着くべき目的地として。そして、そこへ導いてくれると謳う6兆8000億ドル(約1080兆円)規模のウェルネス産業がある。
体系的に「引き算」するという視点から見ると、このアプローチには疑問が浮かぶ。もし喜びが報酬ではないとしたらどうだろう。もしそれが資源であり、私たちが慢性的にそれを不足させているのは、性格の欠陥や時間管理の問題ではなく、具体的で十分に修正可能な3つの過ちがもたらす、まったく予測可能な結果だとしたら。
ダイアン・シファー(Diane Shiffer)は、この問いについて誰よりも長く考えてきた人物だ。約200万人のフォロワーから「インターネットで最も愛されるおばあちゃん」として知られる彼女は、教師、ソーシャルワーカー、そして5人の子を持つシングルマザーとして数十年を過ごした後、ひょんなことからインターネット上で最も心を落ち着かせてくれる存在の一人となった。彼女の新著『The Smallest of Joys: How to Create Your Own Magic, Let Your Best Be Enough, and Find Contentment Exactly As You Are』は、見かけとは違う本だ。
ヴィンテージのティーカップや玄関先のシナモンロールを描いた、心温まる本のように見える。しかし実際には、喜びがどこに宿るのか、それは誰のためのものか、そして何がその邪魔をしているのかについて、厳密かつ根源的な議論を展開した一冊なのだ。
彼女が私に最もはっきりと気づかせてくれた3つの過ちは、次の通りだ。
過ち1:喜びを「燃料」ではなく「ぜいたく」と見なすこと
シファーと話したとき、彼女は示唆に富み、共感できるやりとりについて語ってくれた。ある女性がオンラインで彼女に食ってかかったのだ。深刻な政治的・人権的危機のさなかに、喜びや小さな楽しみを語るなんてと激怒していた。その女性は、活動の原動力として自らの怒りを煮えたぎらせておきたかった。喜びを自分に許すことは、自分が戦っている人々への裏切りだと感じていたのだ。
シファーはその考えを理解した。そのうえで、反論した。
「私たちが何を成し遂げようとしているのか、考えなければなりません」と彼女は言った。「もし最終目標が弱い立場にある人々のために状況を変えることなら、その長く疲れる仕事を続けるために、できることをしなければならない。怒りはあなたを強くはしません。ただすり減らすだけです」
彼女は公民権運動を引き合いに出した。存在をかけた戦いを繰り広げながらも、自分たちに喜びを許した人々。長い教会の礼拝。分かち合う食卓。歌。それは逃避ではなく、燃料としてだった。喜びとは、戦いの後に得るものではない、と彼女は言う。喜びこそが、戦いを持続可能にするのだ。
警戒し続けることを求める世界を、拳を握りしめてくぐり抜けているリーダーたちへ。これが「引き算」のすすめである。目の当たりにする不正義への怒り、絶望、圧倒される気持ちと並んで喜びを感じることへの、恥の意識を引き算するのだ。
過ち2:喜びを「待つ」だけで、自ら築こうとしないこと
シファーは自然に喜びにたどり着いたわけではない。若きシングルマザーだった時期、彼女には乳児から10代までの5人の子ども、うんざりする仕事、そしてその底流に不安と抑うつがあった。彼女はその年月を渦潮のようだったと表現する。数カ月おきに水面に顔を出しては、また引きずり込まれる。
変化をもたらしたのは、状況ではなかった。あまりに小さくて、まったく取るに足らないと切り捨ててしまいたくなるような、ある習慣だった。仕事前の車の中で座っていた彼女は、机に向かうまであと5分あることに気づいた。温かい紙コップのコーヒーを手に、フロントガラスの上で分かれては合わさる雨粒を眺めていた。瞑想をしていたわけでも、日記を書いていたわけでも、もっと楽な人生を思い描いていたわけでもない。ただそこにいて、その瞬間にあり、小さくシンプルな楽しみを味わっていた。あの雨粒とその美しさは、30年経った今でも見えると彼女は言う。
「喜びを両手でしっかり掴んで」と彼女は助言する。うまくいったこうした小さな瞬間を集めるのだ。それらを何度も訪れるのだ。彼女が「喜びの宝箱」と呼ぶもの、つまり美しさと安らぎの感覚をもたらしてくれた瞬間のコレクションを築こう。新しい瞬間を見つけるのが難しく感じるとき、そこに立ち戻れるように。
本書で彼女はさらに、「ハッピー・トラップ(幸せの罠)」と呼ぶものについて語っている。喜びが訪れやすくなるよう、意図的に日常に仕掛ける小さな工夫だ。ひと口飲む前に思わず微笑んでしまうカップ。美しい木や色鮮やかな家の前を通る、少し遠回りのルート。数日後に玄関先に「サプライズ」のご褒美として届くよう、自分宛てに注文して忘れておく贈り物。
受け身であること、待つこと、十分に良い人間であれば、十分に忙しくしていれば、十分にやり遂げれば喜びが向こうから見つけてくれるという思い込み。これらを引き算するのだ。喜びは能動的に組み立てなければならない。種はいつもそこにある、とシファーは言う。ただ、それに気づき、燃料として大切にすることを学ばなければならないのだ。
過ち3:他人の定義を受け入れること
シナモンロールやヴィンテージのレースを扱った本のように見える一冊のなかに、静かに忍ばせられた、おそらく彼女の最も過激な主張がこれだ。喜びはひとつのサイズで万人に合うものではない。そして、自然の中を歩くこと、感謝日記、瞑想アプリという普遍的な処方箋こそが、人々が本当に自分に喜びをもたらすものを見つけることを、かえって難しくしてきたのだ。
「私に喜びをくれるもの、たとえばコーヒーから立ちのぼる湯気、木々を抜ける風、さまよう雨粒などは、他の誰かにとっては無意味だったり、居心地悪かったり、気が滅入るものだったりするかもしれません」と彼女は語った。「一日を過ごすなかで、あの小さなきらめきを感じる瞬間に注意を払ってみてください。それが、自分に本当に喜びをくれるものに耳を澄ませる助けになります」
彼女が最初に自分に出した「許可証」——本書に収められた許可証についてのエッセイは、私のお気に入りのひとつだ——は、自分はずっとぽっちゃりしたままなのだと受け入れた日のことだったという。敗北としてではない。安堵として、だ。彼女は、いつか痩せて着られるようになるはずと考えて、ワンサイズ小さい服を買うのをやめた。「自分にそうした許可を与えるたびに、肩の力が抜けて楽になります。そして、より自分らしく生きられるようになっていることに気づくはずです」と彼女は言う。
その優しさの下で彼女が描いているのは、「引き算」の行為だ。借り物の定義を引き算する。普遍的な処方箋を引き算する。他人の喜びを演じることを引き算し、自分自身のきらめきに注意を向け始めるのだ。素晴らしく風変わりな自分として、本当に自分を生き生きとさせてくれる、具体的で、奇妙で、独特なものたちに。
そして、そうしたきらめきは決して気晴らしなどではないと覚えておいてほしい。それは、あなたに託されたすべての大切な仕事のためのエネルギー源なのだ。



