本作の物語構造を考える上で興味深いのが、それぞれ異なるかたちで3回登場する「馬」のモチーフだ。一回めは、シネマテークの映写室裏だと思われる廊下。壁には1878年にエドワード・マイブリッジが成功させた疾走する馬の連続写真をパネルにしたものが飾られている。マイブリッジの連続写真に触発されたエジソンがキネトスコープを作り、リュミエール兄弟のキネマトグラフへと繋がったので、ここで「馬」は映画が生まれる初源のモチーフを表している。その誇りあるパネル脇に立ち、腕組みをしタバコを吸いながら危機的経営状態に悩む館長。つまりこのシネマテークにおいて、「馬」=誇りは失われそうになっている。
次の「馬」は歌に現れる。財団から支援の中止を告げられたホルヘと館長が、足取り重くシネマテークの地下に降りていくシーンで流れる、レオ・マスリアの『失われた馬』という歌だ。リズミカルだが物悲しい不思議な曲調で、「木の馬は疲れ知らずでギャロップする」「馬は消えた 幼年時代と共に」「その後別の馬が来た」「一日を築く活力のある馬 それはすべての馬」などと歌われる。この不可逆的な「馬」の交代は、フィルムの時代が終わってシネマテークが閉館となることと重ね合わされている。
三番めの「馬」は、バスを降りて街を歩くホルヘの頭の中に登場する。突然鳴り響く特徴的なラッパの音は、『駅馬車』でアリゾナからニューメキシコへの砂漠を駆け抜けようとする馬車が、ネイティブアメリカン(アパッチ族)に襲われた絶体絶命の時に、遠くから聞こえる騎兵隊の進軍ラッパだ。同時に、夥しい銃声と馬たちが大地を蹴るサウンドトラックが流れる。総勢9人を乗せて全速力で疾走する6頭立ての馬車を捉えた見事なカメラワークが有名な『駅馬車』は、まさに走る「馬」の映画と言っても過言ではない。そこで鳴る希望の徴のラッパは、古今の映画を愛するホルヘの中で何かが動き出したことを示すのに、実に相応しい音なのだ。
最初は観客の視覚、次に聴覚、最後は想像力に訴える以上三つの「馬」のイメージは、自分のすべてであったシネマテークの仕事から次の人生に踏み出していく主人公の位相の変化に対応している。
ここまで、本作の「形式」に関わる部分を中心に見てきたが、『駅馬車』のラッパと共に決然と歩き出すホルヘの行動の連鎖は最終的に、映画の「内容」を受け止めるとはどういうことか? という新たな視点に開かれていく。
パオラの勤務する大学に行ったホルヘは、ある教室で教官が時間に遅れているのをいいことに代講教官になりすまし、法科の学生たちに一席ぶってみせる。「嘘は普遍的だ」「価値のある嘘をつけ」「嘘はわれわれを偉大にする」といった何とも諧謔に富んだこのスピーチで、「嘘」に暗に重ね合わされているのはまずフィクションとしての映画だが、法を学ぶ学生相手に「嘘は不可避の法、君たちは嘘の巨匠」と言い放つことで、法もフィクションなのだと告げている。これは無論、ホルヘが数々の映画の「内容」から学んだ真実であると同時に、軍事政権時代の官僚的警察国家体制への批判も仄見える。その後、池の鯉を構って警備員に注意されるのは、ちょっとした”法の逸脱”だ。
次いで、通りすがりのヘアサロンに飛び込んでシャンプーとカットをしてもらう間、ホルヘの中で育っていった「映画のように生きる」という意志は、シネマテークの思い出の詰まった鞄を置き去りにすることで決定的となる。……映画は退屈な人生の息抜きでも、社会生活の過酷さを癒す場所でもない。その証拠に、深い感動をもたらす映画の「内容」はいつでも、「君もこんなふうに生きてみないか」と誘いかけていたではないか……。そんな監督の声が、映画を支える人生を終え、映画から教わってきたことを実践する人生に飛び込んでいく主人公の姿を通して聞こえてくるようだ。


