時間軸という「形式」にも、ある操作が見られる。登場人物のヘアスタイルやメガネ、服装、室内の感じはやや古い、言ってみれば1980年代くらいの雰囲気だ。場内アナウンスを吹き込む録音デッキも、80年代の終わりくらいまでは使われていたアナログなもの。棚にはビデオのパッケージがずらりと並んでおり、映画のビデオ販売が開始された70年代後半以降だとわかる。
また、ホルヘが帳簿の整理をするデスク横の壁に貼ってあるポスターから「RAN AKIRA KUROSAWA」の表記が読み取れるので、「今」は『乱』が公開された1985年から90年代初めあたりかもしれない。ウルグアイは1973年から1985年まで軍事政権下にあり自由は制限されていたため、文化的にやや遅れを取っていたとしても、全体的に見て2000年代以降の感じではない。
ところが、「シネマテークの時間」でポルトガルの巨匠オリヴェイラ特集にホルヘが言及する折、1908年生まれのオリヴェイラが”今年100歳を迎える”と紹介している。シネマテークの入り口の大きな掲示にも、”マノエル・ド・オリヴェイラ生誕百周年記念”とある。ならば、「今」は2008年でなければならない。
更に、映画技師と上映機器の不具合について相談する場面。最終的に技師は、二週間上映を諦めるか、”16ミリかデジタルにする”という案を持ち出す。デジタルシネマの運用システムが世界に広がっていくのは2000年代初めだ。しかし画面から伝わってくるのは、どう見てもそれより十年は前の雰囲気である。
これはどういうことだろうか? まず一つには、1976年生まれのベイロー監督が、自身がモンテビデオにあるシネマテークに通い詰めていた80年代末から90年代の雰囲気を、「今」の中に織り交ぜたかったのではないかと思われる。そのため、映画内の時間は2008年でありながら、監督の思い出の詰まった年代の空気をあちこちに感じさせる工夫をしたのではないだろうか。数多くのフィルムが保存され百年前の作品も去年の作品も上映されるシネマテークは言わば、映画が始まって以来の時間の保管庫だ。この場所への深いリスペクトと愛着によって、こうした幅広い時間軸を感じさせる手法になったと考えられる。
そもそも、このモノクロ、スタンダードサイズの映画の冒頭は、キャストやスタッフはじめすべてのクレジットが表示されてからタイトルが出てドラマが始まる、60年代までの形式を採用している。また『グリード』や『駅馬車』などかつての名作からの引用がある点で、この作品全体を映画史へのオマージュとしたいという意図も読み取れる。
異なる時間軸の並立については、シネマテーク閉鎖後にホルヘが乗ったバスの中でも気になるシーンがある。あまりにも仕事一筋の人生だったために行き場を失って涙ぐむホルヘを、前の席から振り返ってじっと見つめる若い男。その風貌がまるでホルヘをそのまま若くしたようなのだ。間違いなく、彼は若かりしホルヘ自身である。居心地悪くなったホルヘはバスを降りるが、希望に燃えていた頃の自分に見つめられたから、嘆いていてはいけないという思いが芽生えていったのだろう。


