シネフィルの喜びそうな要素も散りばめられている。たとえば冒頭近く、スクリーンに映し出された「McTEAGUE BY FRANK NORRIS」は、その映画が自然主義の作家フランク・ノリスの『マクティーグ サンフランシスコの物語』を原作としたサイレント映画の傑作『グリード』(エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督、1924)であることを示す。後半、ホルヘが街を歩くシーンで突然聞こえてくるラッパは、『駅馬車』(ジョン・フォード監督、1939)のクライマックスシーンのサウンドだ。監督の映画愛溢れるそうした要素を除けば、全体としては地味だが心に残る小品‥‥映画の「内容」だけを見ればそんな印象で終わる人が多いかもしれない。
しかし映画には何を描くかという「内容」だけでなく、いかに描くかという「形式」が存在する。映画の「形式」=フォームはフィルムやスクリーンという装置だけでなく、物語の構造や音響、映像などすべての構成要素に関わり、「内容」を方向づける。
その映画の「形式」について館長マルティネスが語る、印象深い場面がある。ラジオ首都局の「シネマテークの時間」に出演した彼は、「重要なのは情報やデータではなく、映画的表現がいかに人を動かすか? ということだ」と強調し、その優れた例としてエイゼンシュテイン監督の『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)を挙げ、この映画のために作られたプロコフィエフの『氷上の戦い』の音符の動きと映像の各構図の見事な一致ぶりを熱を込めて語る。映画でなければ不可能な表現=映画的表現が、映画という形式においてどのように無駄なく実現されているか、これは優れてフォーマリスティックな議論だ。
しかし件のシーンが映画史上の名場面とされているとは言え、エイゼンシュテインのその作品を観たことのある現代の観客はかなり少数派だろう。そもそもストーリーの謎解きや伏線回収に関心をもつ今の観客は、こうした古典的なフォーマリズム(形式主義)の議論に耳を傾けるのだろうか? そんな監督の問いも、訥々と喋りつつ固有名詞を言い間違えて訂正する館長、番組パーソナリティとして頷きながらも時間を気にするホルヘの姿から浮かび上がってくる。


