その時代に小林は、料理の技術のみならず、社会人としての振る舞い、目上への言葉遣い、人と働くとはどういうことかを学んだ。雪の日にはシェフの車の雪を下ろし、エンジンをかけておく。まかないでは、自分ひとりで15〜20人前を担い、2週間先までの献立を考え続ける。それは仕入れ、調理、提供、後片付けまで含めた「小さなレストラン経営」でもあった。
描いていたシェフになるための設計図

「見て覚える。言葉で教わらなくても、人の動きを見て次に何が必要かを読む。その感覚は、後にフランスへ渡ったとき、大きな武器になりました」と小林。言葉が完全ではなくても、厨房で動作を見れば、次の一手が想像できた。
もちろんフランスでは、大変な思いもした。1998年12月、マイナス10度が続く極寒のパリに、小林は15万円ほどを握りしめて降り立った。紹介者がすぐに働ける手配をしてくれていたはずだったが、「労働ビザがなければ働けない」と言われ、いきなり道を断たれた。
紹介者の家のガレージに寝袋を持ち込み、毎朝プールへ行って水のシャワーを浴び、バゲット1本で3日をつないだ。レストランを何十軒とまわったが、ことごとく断られる日々。やはりビザを取らないと難しいことがわかり、泣く泣く日本に帰国。「残金10万2千円で、帰りの飛行機代が9万9千円。まさにギリギリでした」。
再び渡仏し、その後、地方のいくつかの店で修行を積む。当時小林は、「29歳でシェフになる」と決め、どこで何を学び、何歳までにどのポジションに就くかを描いていた。
フランス料理は地方料理の集合体。イタリア、スペイン、ドイツ、スイスと国境に接する地域ごとに、料理はまるで違う。その違いを現地で身体で知ることが、フランス料理を極めるうえで不可欠だと考えていた。そして、仕上げはパリで、最高峰の店で働くと決めていた。
当時、フランス料理界ではアラン・デュカスが最も話題を集めていた。25歳で、彼が手がけるパリの三つ星「プラザ・アテネ」に入り、2年でスーシェフに。そこでさらに4、5年は経験を積む必要があると考え、32歳になるまで腕を磨いた。


