分断の世界でこそ求められる、自社の生命線を見抜く力
私は、経営者がマハン(※1)やマッキンダー(※2)といった地政学の理論を学ぶべきだとは考えていない。もちろん教養としては有意義だが、それだけで経営判断の質が上がるわけではない。経営者にとって重要なのは、そうした理論を知っていることではなく、地政学的素養である。それは「分断する世界において、自社の事業と組織を成立させている前提条件を理解する能力」と言い換えることができる。
例えば、なぜ台湾が世界経済にとって重要なのか。なぜ米国は半導体の輸出規制を強化するのか。なぜ中東情勢がエネルギー価格や海上輸送を左右するのか━━。経営者が理解すべきなのは、こうした政治、経済、技術、物流、規制の相互作用である。
さらに言えば、地政学的素養とはサプライチェーン管理だけの話ではない。今日のグローバル企業では、本社が日本や欧州、北米にあっても、生産拠点や従業員の多くが中国や中東、東南アジアなど、本社とは異なる政治体制の下に存在していることが珍しくない。その結果、本社が当然と考える価値観やメッセージが、必ずしも全世界で同じように受け止められるとは限らない。
ロシアによるウクライナ侵攻の際、あるグローバル企業は難しい判断を迫られた。西側企業として侵攻を非難し、民主主義やウクライナ支援の立場を鮮明にするべきなのか。それとも、ロシア国内にいる自社の従業員や顧客への影響を優先すべきなのか。経営陣の間でも意見が割れた。そこにあるのは、単純な善悪の問題ではない。価値観や政治体制、歴史、文化、国家間の関係が複雑に絡み合う経営課題である。
※1 …アルフレッド・セイヤー・マハン。19世紀末の米海軍軍人・戦略家。「制海権を握る国が世界の覇権を握る」というシーパワー論(海洋国家論)を提唱。
※2 …ハルフォード・ジョン・マッキンダー。20世紀初頭の英国の地理学者。ユーラシア大陸内陸部(ハートランド)を制する者が世界を制するというハートランド理論を提唱。
「圧力が強まっている方向」を見定めよ
地政学リスクを考える上で、最も重要な視点がある。それは、トレンドと転換点を分けて考えることだ。
例えば、米中対立について考えてみたい。中国の経済成長と軍事力拡大、米国による警戒感の高まり、半導体を巡る技術競争、そして両国の対立に連動して各国に広がる経済安全保障政策——これらは突然始まった現象ではない。米中の覇権競争という、10年以上にわたり進行してきた構造的トレンドである。
ロシアと西側諸国との対立も同様だ。ロシアによるNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大への反発を背景のひとつとして、08年のジョージア紛争、14年のクリミア併合を経て、両国の関係は緩和と悪化を繰り返しながらも、対立の基調を強めていった。つまり、トレンドそのものは見えていたのだ。
しかし、そのトレンドの転換がいつ、どのような形で顕在化するのかは、非常にわかりにくい。米中対立で言えば、台湾海峡危機、半導体輸出規制のさらなる強化、あるいは大規模な関税政策の発動などが転換点となるかもしれない。ロシアと西側の対立においては、振り返ってみれば、ロシアによるウクライナへの侵攻がまさにその転換点だったと言える。
この構造は、気候変動ともよく似ている。地球温暖化という長期トレンドは、明確に存在する。気温の上昇に伴い、豪雨や強い台風の頻度が高まることは、気象データが示す通りだ。しかし、どの年にどの都市で洪水が発生するのか、どの台風が甚大な被害をもたらすのかを、正確に予測することは難しい。地政学も同じだ。重要なのは、個々のイベント(軍事侵攻や規制強化など)がいつ、どのような形で起きるかを当てることではなく、どの方向へ圧力が強まっているのかを、理解することである。


