本連載「法学者が考える今の人権 不適切にはどう『ほどがある』のか」は日本と世界のニュースを「人権」の視点から読み解く時評コラムシリーズ。読者諸氏の今日の意思決定と発信のためのフレーム提示を目指すものである。
第1回(前・後編)は戦争と人権と法をテーマに、谷口氏が戦争をめぐる不条理の構造を解説。自身の日常を生きながらわれわれはどうニュースに対すべきか、そして同時代人としてそれらの「不条理」から課された宿題とはなにか。谷口氏とともに考える。
「Every child has a beautiful name」
2025年の初夏、イスラエルとアメリカによるイランへの攻撃で、多くの子どもたちが命を落とした。停戦や復興が語られはじめると、報道の主語は「国家」に戻る。その復興が語られている最中の2026年2月28日、より大規模な攻撃が再び始まり、初日の朝、南部ミナブの小学校では168人の児童が空爆で殺された。殺された子どもたちは帰ってこない。
当たり前のことだが、子どもたちには、一人ひとり、名前があった。国際人権法・国際人道法の視点から、戦争が終わったあとの子どもたちに、そして次の戦争のなかで殺されつつある子どもたちに、法は、メディアは、そして日本の企業や大学や、私たち読者は、いったい何をなしうるのかを、(法学者の)言葉で腑に落とすところから、連載を始めたい。
先日、18歳になる息子が、カラオケでゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』を歌っていた。1979年、私が幼い頃にヒットした曲だ。国際児童年にちなんで作られた歌だと、あとで知った。「Every child has a beautiful name ひとつのいのちに ひとつの名前」。ハッとして、しばらく画面を見ていた。



