戦争のあとでも消えない「人格権」という権利
数字は、いつも数字としてただ流れていく。私たちは、それを「大変な数だ」と受け止めて、次のニュースに移る。停戦が報じられれば、少しだけ胸をなでおろす。復興が語られれば、話題は経済に戻る。だが、殺された子どもたちは、帰ってこない。彼ら、彼女らには、一人ひとり、名前があった。学校があり、通学路があり、朝ごはんがあり、家族に呼ばれるときの声があった。数字のなかに溶けていく前には、たしかな輪郭があった。
ここで、素朴な問いが立ち上がる。子どもがイランで殺されても、それは「仕方ない」で済むのか。停戦が発表されたら、あの子たちの話は、もう終わりなのか。戦争が終わっても、法は、そして私たちは、あの子たちに何かをすべきではなかったか。
この問いは、感情論のように見えて、実は法の問いである。国際人権法と国際人道法は、まさにこの問いに答えるためにある。子どもの権利条約は、子どもが「出生後直ちに登録され、名前を持つ権利」を有すると定めている。名前とは、統計に還元されない、ひとりの人間としての、生きていることそのものだ。それを人格権という。戦争のなかでも、戦争のあとでも、この権利は消えない。少なくとも法の設計には、そう書かれている。
当たり前のことだが、戦争は起きないほうが良い。否、起きてはならない。ひとたび起きたら悲惨なことにしかならない。そうして、戦争が終わったあと、命を落とした子どもたちに対して、法は、メディアは、そして日本の企業や大学や、私たちは、いったい何をなしうるのか。
タイトルに掲げた「不適切には、どう『ほどがあるのか』」という問いは、話題になったあのドラマの、昭和からタイムトリップした主人公の一言に反応する繊細さや常識?のことだけを指してはいない。戦争ほど、不適切なものはこの世にはない。そして、戦争が終わったあとに、命を落とした子どもたちを忘れることほど、不適切な「日常」もない。
まずは、遠くの数字の向こうに、名前のあった子どもたちに、思いを至らすところから始めたい。


