「つくる」はかならずしも「表現する」と同義語ではない。特に私が主張してみたいのは、「つくる人」が「表現する人」を名乗る必要はないということです。
「つくる人」を議論する時、私たちはそのあり方を「鑑賞者と表現者のスペクトラム」の中に収めようとすることがあります。自分は見る側だ、いや自分は「つくる」側だと。しかし、鑑賞者と表現者の関係は、受け取る人と送る人の関係であり、コミュニケーションの領域です。表現は解釈され、評価される。「つくる」はそうではない。その両端で行われているはずです。
「表現する」ではなく、「より良くする」、「使い続ける」、「愛着を持つ」と同じ場所にある。 そこには「修繕する」「ケアする」も並びます。
「つくる」とは、人と繋がり、人を繋ぎとめる行為です。作品として評価されなくても、ケアや修繕のように関係を存続させることができる。これは「終わりを信じている世代」への応答にもならないでしょうか。
前述のCherwellの筆者は、ニヒリズムへの抵抗を「今この瞬間をできる限り良いものにする」ことに見出していました。広く、小さな「つくる」の伝染力を信じていきたいです。


