企業は、AIが約束する生産性の向上やその他の恩恵をチーム全体で享受するため、AI対応力を高めようと競い合っている。この移行はしばしば「AIトランスフォーメーション」や「デジタルトランスフォーメーション(DX)」と呼ばれ、技術的、人的、組織的な要素が複雑に絡み合っている。しかし、すべての企業が自問すべき重要な問いがある。それは、AIの導入スピードやデジタルトランスフォーメーションの先にある、現在の我々のコア資産とは何か、という点だ。筆者は、それは「コーポレート・センス(企業としてのセンス)」であると主張する。そして、それは従業員の判断力の中に存在するため、保護することが極めて難しい。競合他社に知的財産(IP)を持ち出さないよう求めることはできても、自身の判断力を置いていくよう求めることはできないからだ。
AIが資産をどう変えるか
従来、競争力の源泉となる資産には、ソフトウェア、設計仕様書、組織内のナレッジ、顧客リスト、信頼性などが含まれていた。しかしAIの登場は、競合他社が従来の資産を模倣できるスピードを多くの面で一変させた。例えば、開発に何十年もかかっていたような多数の機能を備えた製品が、今ではごくわずかな時間と人員で作成できるようになっている。クラウド技術、SaaS(Software as a Service)のAPI、そしてAIを統合することで、特に販売台数ベースで測定した場合に、より低コストで運用できる模倣製品を作り出すことが可能だ。そこで、今本当に重要な資産とは何であり、企業はそれをどのように守るべきかという疑問が生じる。
コーポレート・センスとは何か
AIの時代における、労働者個人の重要なスキルのひとつとして、センス(Taste)という言葉を聞いたことがあるかもしれない。ドメインの専門知識、判断力、直感などとも呼ばれるこのセンスとは、強力なAIに対して意味のある要求(プロンプト)へと変換できる、ビジネスドメインや顧客のニーズ、真の課題、価値に関する個人の理解を意味する。
個人のセンスを説明するひとつの方法として、新人料理人とマスターシェフの違いを考えてみよう。同じ食材を与えられたとき、新人料理人は本でレシピを調べるか、あるいはただ色々と試してみるかもしれない。一方、何十年もの経験を持つマスターシェフは、どの食材を組み合わせれば素晴らしい料理ができるかを直感的に理解している。それは、これまでに一度も作ったことがない料理であるかもしれない。同様に価値のあるセンスの要素は、「何を作らないか」を知ることだ。AIが求められたものをほぼ何でも作れてしまう世界において、どの取り組みに資金と時間を費やすべきでないかを判断できる能力は、競争力の源泉となり得る。
これらはすべて個人の文脈で説明したが、企業にも同様に当てはまる。以下の点を考えてみてほしい。
- 企業には、顧客が何を必要とし、何を求めているかに関する組織的なナレッジがある。多くの場合、この知識は失敗や経験、あるいはチームからチームへと語り継がれる伝承を通じて、身を以て学んできたものだ。
- 企業には文化がある。指導者層の姿勢を反映することが多いこれらの文化は、闘志や粘り強さ、透明性、説明責任、顧客価値といった価値観を優先する。こうした文化は、過去に何がうまくいったかを新入社員に教育する役割を果たす。
- 企業は、何を行うかだけでなく、何を行わないかという点についてもベストプラクティスを構築している。後者は極めて重要であるが、文書化されることは滅多にない。
適当な言葉が見当たらないため、筆者はこれを「コーポレート・センス」と呼んでいる。これは、成功している組織の個性であり、新入社員に受け継がれ、新たな経験とともに進化していくものだ。
これは単なる「文化」ではないか、と思う人もいるかもしれない。そうではない。文化とは「どのように行動するか」であり、組織的なナレッジとは「何を知っているか」である。対して、コーポレート・センスとは、「何を選択するか」、そしてどの課題を解決し、何を構築し、何から手を引くべきかという判断力のことである。
競争資産としてのコーポレート・センス
AIによって新製品の開発、デプロイ、テストが容易になるにつれ、競争力は、何を行い、何を行わないかを知るという適切な意思決定に帰着するようになる。AIも時間をかければこれらの意思決定を学習できるが、それらは往々にしてチームメンバーの頭の中に存在している。そうした集合的な知識、実践、そして文化は、AIによる戦力増幅効果(フォースマルチプライヤー)――つまり、AI主導の業務1ユニットから得られるビジネス価値の量――を高めるための重要な資産となる。
しかし、前述のように、この資産を守ることは極めて困難である。従業員が退職する際、既存の法的保護(雇用契約における知的財産条項など)により、コードや設計書などの物理的な成果物を新しい雇用主に持ち出すことは禁止されている。また、雇用契約によって、自社から他者をスカウトすることを禁止することも多い。しかし、自身の判断力を置いていくよう義務付けることはできない。AIの時代においては、その判断力さえあれば、別の会社で強力な競合相手を作り出すことができてしまうのだ。
企業が取るべき対策
自社を守るためにできることはいくつかある。
- 第一に、判断力が極めて重要な資産になったと認識することだ。これは、組織が判断力を文書化し、共有するための戦略を持つ必要があることを意味する。医療における研修プロセスが参考になるかもしれない。現役の医師と共に行う回診を通じて、研修医は判断力を学ぶことができる。
- 第二の課題は、その判断力を文書化することだ。組織は通常、下された決定を文書化する。しかし、なぜそのような決定が下されたのか、どの要因が優位に働いたのかというプロセスについての文書化はまれである。そして最もまれで、最も価値が高いのは、組織が何を行わないと決めたのか、そしてなぜそうしたのかという記録である。却下された選択肢、構築しなかった製品、参入しなかった市場、意図的に除外した機能などは、企業が持つ最も密度の高い判断力の記録であるが、書き残されることはほとんどない。私たちは行動するという決定は記録するが、見送るという決定の背後にある理由は捨ててしまう。つまり、コーポレート・センスの最も純粋な表現は、通常、最初に失われるものなのだ。
- 人間の価値を保護すること。コーポレート・センスが競合他社に渡る最も容易な経路は、退職する従業員の頭の中である。特に、AIが雇用を脅かす存在として捉えられがちな今、コーポレート・センスが競合他社のオフィスへと流出するのを防ぐことは、これまで以上に重要になっている。
- 人間の価値を尊重するということは、センスを文書化し伝承することが、その人物を置き換える前に知識を吸い上げようとする試みではないことを、一貫して明確に示すことでもある。そのような印象を与える組織は、おそらく得ることになる不信感に値するだろう。ここでも医療研修の例が指標となる。指導医は病院内で最も限られた資源のひとつであるが、回診に研修医が同行したからといってその事実が変わるわけではない。
最も効果的なアプローチは、判断力を実際に学習される方法で伝承することだ。つまり、文書のみによるのではなく、実際の現場に身を置くこと、すなわち、実際の意思決定における徒弟制度、先輩社員が選択肢を検討する際のシャドーイング、および選択の背後にある理由を暗黙のままにせず口頭で明確にするレビューの儀式などを通じることである。ここでもやはり、医療が最も明確なモデルを示している。臨床における判断力はマニュアルで引き渡すことはできないが、教育病院は回診や症例検討を通じて、それを確実に伝授している。若手は、ベテラン医師が何を行わないかという選択を含めて意思決定する様子を観察し、やがてその判断力を自らのものにしていくのだ。
最後に、このように判断力を伝承すると、組織全体のセンスが固定化してしまうのではないかと懸念する人がいるかもしれない。しかし、筆者はその可能性は低いと考える。センスを伝えることで、新入社員が判断力を学びつつ、それを彼ら自身の独自の視点と組み合わせることを促せるからだ。優れたコーポレート・センスは、古いものの最良の部分を維持し、必要に応じて新たな要素を加えながら、新しい発展とともに進化していくものである。
まとめ
コーポレート・センスは、今やビジネスにおける極めて重要な資産である。ビジネスリーダーとして、これを重要な価値として認識し、自社の事業運営や専門分野においてそれが具体的にどのように現れるかを理解し、それを保護し育むためのプロセスを構築することは、十分に時間をかける価値がある取り組みだ。



