AIエージェントのデモは、いまや珍しくない。難しいのは、そのAIを実際の業務に投入し、企業が仕事を任せられるだけの信頼性をつくることだ──。
Gartnerは2025年、エージェント型AIプロジェクトの40%以上が2027年末までに中止されると予測。MITのNANDAイニシアチブも、企業の生成AIパイロットの約95%が収益面で測定可能な成果につながっていないと報告した。そんななか、労働力不足を理由に黒字企業の倒産が増加する今、あえて日本を最初の市場に選んだAIスタートアップがある。電話・メール・チャット・SNSを横断し、企業のコミュニケーション業務を自律的に遂行する「AIエージェント基盤」を提供する樹林AIだ。
同社が狙うのは、AIに“答えさせる”ことではない。企業が安心して“仕事を任せられる”状態まで持っていくことだという。
シリコンバレーの著名ユニコーン出身者が集う異能集団は、なぜ日本発にこだわり、信頼をどう勝ち取るのか。経営陣に聞いた。信頼をどう勝ち取るのか。経営陣に聞いた。
AIは「生存のツール」──日本を選んだ逆張りの論理
「米国にとってAIは、あれば競争力が増すツールです。しかし日本では、AIはすでに生存のためのツールになっている。AIがなければ、会社そのものが立ち行かなくなる状況です」
創業者でCEOのオオイ・ライスは、日本を最初の市場に選んだ理由をそう語る。
日本では、人手不足がすでに企業の存続をじわじわと脅かし始めている。人手不足倒産は2025年に427件。全倒産に占める割合はまだ小さいものの、3年連続で過去最多を更新(帝国データバンク調べ)。倒産に至らない休廃業・解散も年間約6万8,000件にのぼり、その約半数は黒字のまま市場を去る「静かな退場」だ。多くのAI企業が米国で産声を上げるなか、樹林AIが日本を選んだ背景には、市場構造への冷静な洞察がある。
日本のエンタープライズ営業は商談に2年かかるのが通説で、契約のライフタイムは平均19.5年。一度信頼を得れば、半額の競合が現れても簡単には乗り換えられない「先行者が勝つ市場」だ。ところが樹林AIの実感は、その通説を裏切る。
「AIエージェントの商談は2〜3カ月で決まります。しかも、日本の顧客はROIの説明を求めない。AIが必要なことは、すでに分かっているからです」(オオイ)
「日本企業は保守的だから売れない、というスタートアップの言い訳を私は信じません」とオオイは言い切る。
「聞かれるのは『いつ始められるのか』『精度はどれほどか』。AIエージェントに関しては、実は米国より日本のほうが売りやすいのです」(オオイ)
「答えるAI」から「動くAI」へ
樹林AIが提供するのは、チャットボットのような単機能の「AIツール」ではない。問い合わせ対応から受注、決済、配送手配、CRM更新までを一気通貫で担う「AIエージェント基盤(プラットフォーム)」だ。従来のチャットボットがカスタマージャーニーの入口しか自動化できなかったのに対し、樹林AIは業務プロセスそのものを動かす。
例えば、象徴的な例に配送日変更の場面がある。AIがLINEで顧客に配送予定を通知し、直前に「時間を変えてほしい」と返信が来る。APIでの変更が間に合わなければ、AIが配送ドライバーに日本語で電話をかけて調整し、結果を顧客に報告する。「アプリを開いて操作する時代から、エージェントに話しかければ物事が済む時代へ。LLMが人間の自然言語と機械のAPIを相互に翻訳することで、これまで人間が担っていた橋渡しが不要になります」と、CTOのファルジン・ヘマティ(元Google、市場評価値2.4兆円[*1]ユニコーン企業Applied Intuitionの創業Head of Engineering)は語る。
技術の裏付けも際立つ。通常の電話で1秒を切る0.7秒、Web通話では0.4秒の応答速度を、OpenAIのリアルタイムモデル発表より3カ月早く自力で達成。認識率は顧客・社内でのテストに基づき電話で99%前後、Web通話では99.7%に達し、対応言語は105に及ぶ。複数の大規模言語モデルを束ねて回答を統合する独自の「メタモデル」構成により、ハルシネーションの抑制と可用性を両立させている。

「デモをつくるのは簡単です。しかし実際の電話網では音声が大きく劣化する。クリーンな録音で85%を超えていた精度が、実環境では25%を下回ることもあるのです。『自分たちでも作れるから不要』と言った企業が半年後に戻ってきて、いまでは最も熱心な顧客になっていたりもします」(オオイ)
世界一厳しい「日本品質」は、戦い方で超える
世界で最も要求水準が高いといわれる日本企業の品質基準を、樹林AIは3段階に分けて捉える。社内業務なら精度90%、対外的かつ非ハイリスクな業務なら99.5%、金融のようなハイリスク領域では100%。同社はこの基準から目を逸らさず、リスクに応じて設計を変える。ハイリスク領域ではAIがドラフトを作成し、人間が確認して初めて送信される。できることを誇張せず、求められる水準に見合う形で、任せてもらえる範囲を一歩ずつ広げていく。
「信頼は、できることを誇張するのではなく、業務のリスクに応じて任せられる範囲を設計する。樹林AIにとって、信頼とは一度に得るものではなく、タスクごとに積み上げていくものだ」(オオイ)
支えるのは、エンジニアが顧客企業に常駐して現場で課題を解決する「フォワード・デプロイド・エンジニアリング(FDE)」の文化だ。要望はその場で製品に反映され、スコープは日々更新されていく。
その成果は数字に表れている。あるコールセンターでは約60名の体制を5〜8名に集約し、約9割のコスト削減を実現。あるケーブルテレビ企業では、年間1.3億円のコールセンター運営費を、顧客満足度を維持したまま半減させた。
「重要なのは、削減された人員の行き先です。労働力不足の日本では、解雇ではなく、優秀な人材ほど、より価値を生む部署へ再配置されます。AIは人間から仕事を奪うのではなく、人間を定型作業から解放し、意思決定や創造といった本質的な仕事に集中させるのです」(オオイ)
連続起業家であり、AI企業の役員として日本の大手企業へのAIソリューション導入を重ねてきた日本法人代表取締役の諏訪 翔は、現場の変化をこう証言する。
「デモを見た瞬間、お客様の表情が懐疑から信頼へ変わるのが分かります。いまではお客様自身が社内やグループ企業へ樹林AIを売り込んでくださる。実際に使ってくださったお客様が、私たちの営業をしてくれるという循環が起きています」
日本で鍛えられた水準は、海外では信用にもなる。六本木ヒルズ開業メンバー・森美術館広報責任者で、東京2020大会のメインプレスセンター責任者・デジタルコミュニケーションディレクターなどを務めた最高外交責任者の髙山明日香は言う。
「日本のお客様が求めるサービス品質は、世界でも非常に高い水準にあります。さらに日本語には、文脈や距離感、敬意といった繊細なニュアンスが求められる。だからこそ、サービスとコミュニケーション、その両面で日本のお客様に満足していただけるものをつくれたなら、それは世界で通用する品質に到達したということだと考えています。日本で磨き上げた樹林AIの品質を、アジアへ、そして世界へ広げていく。それが私たちの目指す道です」
日本発、世界基準のAIインフラへ

この異能のチームに、満を持して加わった人物がいる。代表取締役会長の大沢幸弘は、三井物産でキャリアを始め、ソフトバンク、KDDI、マイクロソフトなど主要企業の大規模コンタクトセンター構築を主導し、Dolby日本法人社長も12年以上務めてきた業界の重鎮だ。
大沢自身、同じ市場で新たな会社を立ち上げる構想を持っていた。しかし、オオイらと対話を重ねるなかで、別の道を選んだ。
「自分で同じ会社をつくろうとしても、このチームと同じ、あるいはこれ以上のチームをつくることはできないと思いました。私の人生で出会った中で、最も可能性を感じるスタートアップです」(大沢)
コンタクトセンター業界を30年以上見てきた大沢にとって、AIエージェントの登場は単なる技術革新ではない。長く変わらなかった顧客接点そのものを変える可能性を持つ。
「コンタクトセンターの技術は30年以上、改善を続けてきました。しかし、AIエージェントが登場するまで、根本的な変化はほとんどなかったと思います。企業がコスト削減を追い、顧客接点をWebへ移す一方で、ある意味では『顧客の利便性』を忘れてしまった。今こそ原点に戻るべきです」(大沢)
大沢が重ねるのは、日本で圧倒的に成功しながら世界には広がりそびれたi-modeの記憶だ。
「日本がやり残した宿題は、今度こそ ”日本から世界へ”、です」(大沢)
大型資金調達が常識のAI業界にあって、樹林AIはVCマネーに頼らず創業以来2年連続の黒字を続ける。
「契約と売上を先に取り、その収益で開発する。だからすべての機能は顧客の要望から生まれ、意味のない機能がひとつもない。リーンであることが、製品の価値密度を高めているのです」(オオイ)
オオイの視線の先には、AI市場が米国と中国の陣営に割れ、企業が側を選ばされる未来への危機感がある。だからこそ、樹林Aは独自AIモデルのトレーニングにも着手した。
「日本が他国に首根っこを掴まれるようなことがあってはならない。日本には日本のソブリンAIが必要です。その第一歩として、フロンティアモデルの95%の性能を数分の一のコストで実現する小型モデルを開発しています。需要が確認できれば、日本のための本格的なモデル開発に進みます」(オオイ)
社名の「樹林」は森を意味する。「日本の働く人々は、膨大なマニュアルと定型業務に疲弊しています。その混沌を、森の中で禅を組むような静けさに変えたい」。つながりの隙間を埋め、世界をもっと近くに——。世界で最も厳しい市場で鍛えられた日本発のAIエージェント基盤は、いま静かに世界へと歩を進めている。
おおい・らいす◎樹林 AI 創業者 ・CEO。東京大学、ジョージア工科大学、北海道大学等で AI・ソフトウェア工学と経営工学を専攻。シリコンバレーユニコーン「Applied Intuition」の初期メンバーとして国内外の広範な自律システム実装を統括。
おおさわ・ゆきひろ◎樹林AI 代表取締役会長。早稲田大学(高等学院/理工学部)卒業、東京大学EMP修了。三井物産にて多数の大規模コンタクトセンターの構築・運用を手がけ、業界変革を牽引。その後、米Macromedia社など複数の米国テクノロジー企業で日本およびアジア大洋州の責任者を歴任。現在Dolby Laboratories日本法人代表取締役社長(兼)東南アジア・大洋州統括を務めながら、2026年2月より樹林AI代表取締役会長に就任。
ファルジン・ヘマティ◎樹林AI CTO(最高情報技術責任者)。シリコンバレーユニコーンApplied Intuition、創業Head of Engineeringを務め、ゼロからシステムを構築しB2B領域で数十億人のユーザー獲得。
たかやま・あすか◎樹林AI 最高外交責任者。東急文化村、ゴールドマン・サックスを経て、森美術館にて広報責任者として六本木ヒルズ開業プロジェクトを主導。東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会ではメインプレスセンター責任者、デジタルコミュニケーション戦略長など歴任。その後シリコンバレーユニコーンMapboxを経て樹林AIに参画。
すわ・しょう◎樹林AI 日本法人代表取締役・COO。中国にて外食産業を20店舗へ拡大後、AI領域へ転身。中国Beauty Tech最大手Beauty Data AIの日本市場責任者を経て、AI企業役員を歴任し、大手企業のAI導入を支援。その後、樹林AIを共同創業。
[*1]2025年6月時点



