みんなが沈黙を守る理由
会議において、参加者は情報を評価しているだけではない。自分が周囲からどう見られるかを気にしている。質問をすることは好奇心の表れとも受け取れるが、理解不足や反発、批判、あるいは準備不足とみなされる恐れもある。
だからこそ「評価への懸念」が重要な意味を持つ。他者からどう判断されるかを恐れるとき、人は発言を控える。若手社員は「この質問は的外れではないか」と悩むかもしれない。マネジャーは、部下の前で自分の不確実性を露呈したくないために質問を避けるかもしれない。ベテラン社員は、本質的な問題は内密に処理すべきだと考えて沈黙を守るかもしれない。
ここには「心理的安全性」も関係しているが、これもしばしば誤解されている。リーダーが「何でも聞いてください」と言いつつ、実際には何を聞いても安全だとは到底思えないような雰囲気を作り出していることがある。試されているのは、質問が許可されているかどうかではない。答えにくく、気まずく、まとまっていない質問や、反対意見を含む質問が、有益なものとして扱われるかどうかだ。
人々は、誰かが耳の痛い質問をした前回の様子を覚えている。リーダーが防衛的になったか、周囲がため息をついたか、その問題が棚上げにされたか、あるいはその質問者が後に「否定的な人物」と評されたかを、よく覚えているのだ。
招待は新しいかもしれない。だが記憶は新しくない。
全員に問いかけることの問題点
「何か質問はありますか?」という問いは、部屋にいる全員に向けて発せられながら、沈黙を破る責任を個々の参加者に押し付けている。これは設計として不十分だ。誰もが、他の誰かが最初に発言するのを様子見する。そして誰も話さなければ、沈黙は瞬く間に社会的シグナルになってしまう。
このパターンは「多元的無知」という概念で説明できる。一人ひとりが心の中で疑問を抱いていても、誰も声を上げないため、他の全員は納得しているのだと思い込んでしまう。こうして沈黙がさらなる沈黙を呼び、人々は表向きの静けさを「全員の理解が一致している」と誤解する。
これは、大人数の会議や全社集会、部門横断的な報告会、オンライン会議などで特によく見られる。規模が大きくなるほど、問いかけは自分ごととして感じられなくなる。1対1であれば簡単に聞けたはずの質問が、50人の前での「パフォーマンス」に変わってしまう。
また、このやり方は特定の性格の人に有利に働く。自分に自信がある話し手や、役職の高い従業員、公の場で意見を述べることに抵抗がない人ほど発言しやすい。一方で、物静かな従業員や、入社間もない社員、あるいは公の場で権威に疑問を呈することがリスクとされる文化や背景を持つ人々は、有益な懸念を抱いていても、沈黙を守り続けることになる。
大雑把な問いかけは一見、包摂的に見えるが、実際には「もともと発言しやすい人」の声をさらに大きくするだけにすぎない。


