横浜中華街の成功モデルを参考に開発
ところで、日本の中華料理は、幕末以降、横浜などの開港地にやって来た中国南方の華僑がもたらした味がベースとなっていたが、韓国の場合は、すでに述べたとおり、黄海をはさんで対岸の山東省出身の華僑であり、持ち込んだのも中国北方料理である。
仁川の中華街を歩くと、実際、中国北方の料理を供する店がほとんどだった。日本より先に流行したマーラータンの店を除けば、すでに筆者がレポートしたソウルのチャイナタウン大林、ヤンコチ通りや新村などの飲食街にあるような、いわゆるガチ中華はそれほど多くはなさそうだ。
実を言うと、韓国の中華料理店の草分けだった共和春は、1983年に一度、閉店している。戦後の仁川中華街はずいぶん寂れていたようで、筆者は偶然チャジャンミョン博物館内の特別企画展示で見た、1960年頃に韓国人写真家が撮影した当時の写真が、その事実を物語っていた。
現在の共和春は、1992年の韓中国交回復以降、中華街を復興しようとする機運に乗って、2004年に韓国の人が始めた同名店なのである。
韓中間には朝鮮戦争に始まる断絶の時期が続いたが、その間、中国由来の料理のローカライズが進んだのだ。その際に味の決め手となったのが、戦後韓国の食品会社が発売し、飲食店で広く使われるようになった春醤(チュンジャン)だった。
ところで、筆者にとって仁川でさらに面白かったのは、飲食店の並ぶ中華街の周辺に華僑歴史博物館とともに、旧日本租界にあった銀行などの老建築を改装した歴史展示施設がずいぶんあることだった。
なかでも興味深かったのは、1899年に建てられた日本第一銀行仁川支店を改装し、2010年に開館した仁川開港博物館と、1888年に長崎出身の海運業者の堀久太郎が建てた韓国初の3階建て西洋式ホテルである大仏ホテルの遺構を復元し、2018年に開館した大仏ホテル展示館である。
仁川開港博物館では、仁川の外国人租界に点在した日英露清の4つの国の領事館やキリスト教会、銀行、商館、要人の邸宅などを近代文化遺産として紹介しており、韓国初の鉄道である京仁線に関する資料も面白かった。特に新鮮に思えたのは、当時の家並みを描いた郷愁を誘うようなパノラマ画の展示だった。
また大仏ホテル展示館では、19世紀当時、外国人宿泊客が多く利用した同ホテルで繰り広げられた、まさに西洋植民地文化の数々のシーンを写真で紹介していた。租界時代の仁川を韓国における近代の幕開けの地として表象しており、横浜の開港と同じ位置付けで捉えているのだろう。
そのレトロな展示イメージは、1990年代から2000年代にかけて上海で見られた中華民国期への郷愁という、実のところ、中国では少々政治的に込み入った歴史認識を基調とした老上海ブームを想起させるところがないでもない。
それはさておき、今日の仁川中華街は、飲食街をメインとした観光地化という横浜中華街の成功モデルを参考に開発されたという。
とはいえ、老華僑が長く支えてきた横浜中華街とは違い、誤解を恐れずに言うと、今日の仁川中華街にはリアルさを欠いた抜け殻のような印象があり、その一方、中国籍で多数を占める朝鮮族たちはソウル南部の大林の工場団地周辺に巨大かつ尋常ならざるチャイナタウンを形成していることはすでに述べたとおりである。
仁川中華街は19世紀後半の開港時に生まれたが、戦後、存在も忘れられていたほど寂れ、1990年代の韓中国交正常化以降、再建された。ちょうど同じ頃、中国朝鮮族の人たちが大挙して来ることで大林が生まれているのだ。
筆者は仁川と大林というソウル近郊にほぼ同時代に形成された2つの出自と性格の異なる中華街を訪ね、いま韓国で起きている新しい外国人コミュニティの出現と多文化社会の進行ぶりを、日本との比較という意味で、どう理解すればいいのか考えさせられた。


