こうした理由もあって、自然界では、ヤモリより大きな動物は、同じやり方で壁などを上ることができないし、人間サイズで同じ仕組みを再現するのに何年もかかった。
見過ごされているもう一つの点は、「剥がしやすさ」だ。ヤモリは、足を押しつけては一瞬で剥がす動作を繰り返すことで、1秒で体長の何倍分もの距離を走ることができる。接着力が強いのに、跡を残さず瞬時に剥がせることこそ、人工的な接着面の実用化に必要であり、通常のテープや接着剤では再現できないことなのだ。
ヤモリの足裏の仕組みを軍装備品に活用する
DARPAのZ-Manプログラムが目指したのは、ヤモリの足裏の仕組みを人工的に再現し、兵士がロープやはしごを使わずに都市部の壁などを上れる技術を開発することだ。そして、非営利の科学技術研究組織チャールズ・スターク・ドレイパー研究所と、スタンフォード大学の機械工学チームは、「微細なプラスチックの毛が生えたシート状のパドル」ではなく、硬いパドルを開発した。
このパドルは、クライマーの体重を、接着面全体に均等に分散させられる設計になっている。ヤモリの足裏の毛を1本1本再現したわけではなく、その構造的な仕組みを模倣したわけだ。
ほかにも、マサチューセッツ大学アマースト校が「Geckskin」という関連素材を開発している。2012年に『Advanced Materials』で初めて報告されたこの素材も、構造を模倣している。名刺大のパッチだが、垂直のガラス面に重さ約318kgの物をくっつけても落ちない。
スパイダーマンは放射能を浴びたクモに噛まれて誕生したが、これまで紹介してきた研究は、フィクションの物理学ではない。これは、いわば「収斂工学」の成果だ。人間は、制約下で試行錯誤を繰り返すことで、体長数cmのヤモリが何百万年もの進化のあいだに磨き上げてきた仕組みにたどり着いたのだ。
ヤモリの足裏を巡る物語は、生物が持つ「スーパーパワー」に関する人間の思い込みが正された良い例だ。そのスーパーパワーは、粘着物質でもないし、魔法でもない。目に見えないほど小さなスケールにおける、形状による問題解決策だ。その違いが理解されたことで、ヤモリの足裏を工学的に再現することができた。「粘着力」を瓶詰め保存することはできないが、形状であれば、忍耐強く取り組めば再現が可能だ。
兵士がヤモリ型パドルを使って壁を上る技術はまだ実証段階にあり、標準装備としての実用化には至っていない。現在もこの分野で研究が続けられている。しかし、基盤となる科学は十分に確立されている。この技術は、自然が成し遂げたエンジニアリングは、人間がゼロから作り上げるものよりも優れていることを示すバイオミミクリー(生物模倣)の典型例となっている──放射能を浴びたクモに噛まれる必要はないのだ。


