アート

2026.07.31 15:15

空白の部屋が問う「分断」──ヴェネツィア・ビエンナーレ2026から考える

現在イタリア・ヴェネツィアで開催されている世界最大級の国際美術展「第61回ヴェネツィア・ビエンナーレ」。小さな声に耳を傾けることをテーマに掲げたこの芸術祭では、一方で「どの声を展示し、どの声を退けるのか」をめぐる議論も巻き起こった。その出来事を手がかりに、「共にある」とは何かを考える。


第61回ヴェネツィア・ビエンナーレの主題は「In Minor Keys」だった。この〈短調で〉を意味する「minor」という語には、いくつもの含みがある。長調の明るい解決へ急がず、解ききれないものに耳を澄ます調子。そして、大きな主旋律の陰に置かれてきた声、小さきもの、周縁の場所、人間中心の尺度では捉えきれない生命へのまなざしである。

しかもタイトルは複数形だった。世界を一つの気分に束ねるのではなく、いくつもの小さな調べが、それぞれのまま鳴っている状態。そのような構えが、そこには示されていた。これは単にアート業界の話ではない。私には、人が集まって「どの違いまでなら同じ場に置けるか」を決める、あらゆる場所に共通する問題の、純度の高い縮図に思えた。組織であれ、国家であれ、アルゴリズムであれ、場をつくるということは、つねに何を迎え入れ、何を外に置くのかという判断を伴っている。

主題を選んだキュレーター、コヨ・クオは、アフリカ人女性として初めてこの美術展の総合ディレクターに指名されながら、開幕を見ることなく亡くなった。展示は、彼女が遺した構想を、残された者たちが引き受けるかたちで実現された。その出発点には、本人不在の構想をどのように預かるのかという、きわめて繊細な問題があった。

小さな声が、主旋律になるとき

クオが思い描いたのは、立ち止まり、耳を澄ます展覧会だった。ところが、それは近年でもとりわけ分断的な回として開幕した。ロシアやイスラエルの参加、そしてそれらを審査の対象とするかをめぐって抗議と混乱が広がり、国際審査員団は辞任した。minorという主題は、解ききれないものを抱えた世界に対する応答であったはずだが、現実の会場では、どの痛みを同じ場に置けるのかという問いが、より鋭く露出していた。

これはいくつかの批評も指摘していたことだが、私自身も会場を歩きながら、minorを掲げる展覧会が、いつのまにか別のmajorを立ち上げてしまう瞬間を感じた。布の揺れ、低く保たれた照明、悼みの言葉が連なる展示のなかで、怒りさえも、どこか整えられた感情として配置されていくように見えた。対立も、悲しみも、怒りも、上品な一つの哀歌へと束ねられていく。そこには、美しい統合であるがゆえの危うさがあった。

minorへ耳を澄ますことも、扱いを誤れば、ひとつの大きな声になる。世界を一つの調べに合わせようとすれば、合わないものが必ず溢れる。そして、その溢れたものほど、しばしば制度のなかで語られにくくなる。問われているのは明るい長調が良いのか、上品な短調が良いのかということではない。複数の調べが、他の調べを完全にかき消すことなく、同時に鳴っていられる条件のほうだ。〈小さきもの〉だけを称えることが新しい主旋律になった瞬間、それはもう小さくない。

均一化は、いつも暴力的な顔でやってくるわけではない。むしろ多くの場合、美しさや正しさの顔でやってくる。「分断しないように」「場を乱さないように」「足並みをそろえて」。その穏やかな手つきが、しばしば誰かを黙らせる。会議で、最も不都合な指摘が「建設的でない」と呼ばれて消えるとき。組織で、異議申し立てが「チームの空気を壊す」と処理されるとき。社会で、痛みを語る声が「分断を煽る」と名指されるとき。私たちは、この力を日々目にしている。

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文・写真=宮田裕章

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宮田裕章の「辺境」未来論 ──Resonant Regions

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