測れるものだけが、代表される社会
ここで起きているのは、芸術作品の可否をめぐる一回限りの判断ではない。ある声を「場に置いてよい声」とし、別の声を「場を壊す声」と分類する制度の働きである。分類は、決して中立ではない。美術館であれ、会議室であれ、行政であれ、あるいはアルゴリズムであれ、場を運営する者は、何を意味ある声とみなし、何をノイズとみなすかを決めている。そこには、必ず力が働く。
この問題は、AIや指標の時代には、さらに切実になる。AIも指標も、未来のかすかな兆候を読む強力な手がかりを与えてくれる。医療でも、都市でも、教育でも、経営でも、データは、これまで見えなかった偏りやリスクを可視化する。勘や慣習だけに委ねられてきた判断を、より検証可能なものにしてくれる。
けれども、〈測れるものだけ〉が代表される世界をつくれば、私たちは恐れていた排除を、今度は客観性の名のもとで再生産することになる。数値化できる痛みは拾われる。申請書に書ける困難は認識される。モデルが予測しやすいリスクは対処される。けれど、まだ言葉になっていない違和感、制度の形式に合わない苦しさ、未来において初めて明らかになる損失は、そこからこぼれ落ちる。
だから判定を、AIやモデルに丸投げしてはならない。数値と、そこからこぼれ落ちる声とを突き合わせること。予測と、現場の違和感を往復させること。分類の外側に置かれたものが、分類そのものを問い返せる余地を残すこと。これからの時代に必要なのは、AIを使わないことではない。AIがつくる境界線を、人間の対話と検証によって、何度でも引き直せるようにしておくことだ。
共にあることの条件
私が Better Co-being という言葉で考えてきたのも、まさにこの条件である。ここでいう「より良い」とは、最上級ではなく比較級だ。完全な正解に到達することではない。誰も傷つけない純粋な選択肢があると信じることでもない。何かを取りこぼしてしまうかもしれないと覚悟しながら、それでも不正を少し減らし、聞き落としていた声に近づき、誤ったときに戻れる道を残す。終わらない営みとしての「より良さ」である。
だからこそ、「何がより良いか」を決める権限を、力を持つ側だけが独占してはならない。組織を率いる者は、異議を「空気を壊すもの」として扱っていないかを問い直さなければならない。社会を設計する者は、制度の外にこぼれ落ちる声を、単なる例外として処理していないかを見なければならない。AIを世に放つ者は、モデルが見えるものと見えないものの境界に、誰の痛みが置き去りにされているのかを検証し続けなければならない。


