アート

2026.07.31 15:15

空白の部屋が問う「分断」──ヴェネツィア・ビエンナーレ2026から考える

同じ嘆きが、迎えられ、消される

ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場の一つであるアルセナーレで、観客が最初に目にするのは一枚の布である。そこには、2023年にイスラエルの空爆で殺されたパレスチナの詩人、レファアト・アルアリールの詩が刷られている。自分が死ぬのなら、凧をあげて思い出してほしい。そう呼びかける言葉が、中央展示の入口に置かれている。

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そこからほど近い場所に、空っぽの部屋がある。南アフリカ館である。本来そこには、ガブリエル・ゴライアスの《エレジー》が置かれるはずだった。暴力に奪われた命を、声と沈黙のあいだで悼む作品である。南アフリカで殺された女性、植民地期ナミビアでドイツの植民地暴力によって奪われた人々、そして、同じくイスラエルの空爆で斃れたもう一人のパレスチナの詩人、ヒバ・アブ・ヌダ。私には、その作品が「この命は、悼むに値する命として、私たちに見えているか」と問いかけているように思えた。

会期前、南アフリカの文化大臣が介入した。問題とされたのは作品全体ではなく、アブ・ヌダを悼む部分だったとされる。退場の理由は「分断を生む」というものだった。南アフリカ政府はパレスチナを支持してきたが、中止は一人の大臣の判断だった。ゴライアスは変更を拒み、部屋は閉ざされた。作品は、会場の外にある教会で上演されることになった。

ここで起きたことは、この展覧会が抱えていた矛盾を端的に示していた。同じ暴力の時代に、イスラエルの空爆によって命を失った、二人のパレスチナの詩人を悼む声。一方は中央展示の入口に迎えられ、もう一方は国家パビリオンという政治の部屋から消された。違ったのは、嘆きの深さではない。その嘆きを「分断」と判断する力を、誰が握っていたかだった。

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不都合な異議を「分断を生む」と呼んで退ける。それは芸術祭にかぎらない。あらゆる組織で、あらゆる統治で、排除はしばしば保護の顔で語られる。場を守るため、秩序を守るため、中立性を守るため。しかし、その「守る」という言葉のなかで、何が守られ、何が消されているのかを、私たちは何度でも問い直さなければならない。

もちろん、すべての声を無条件に同じ場所へ置けばよい、という単純な話ではない。場には責任がある。暴力を扇動する言葉、誰かの尊厳を踏みにじる表現に対して、場が判断を放棄することはできない。けれども、その判断が本当に誰かを守るためのものなのか。それとも、権力にとって都合の悪い声を取り除くためのものなのか。その境界は、いつも不安定である。だからこそ、「これは分断だ」と判断する力そのものを、検証にさらし続ける必要がある。

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文・写真=宮田裕章

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宮田裕章の「辺境」未来論 ──Resonant Regions

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