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2026.08.16 14:30

各界著名人が10代と語り合いたい「不朽の名作」

イラストレーション=オリアナ・フェンウィック

「ネガティブ」に見いだす美の感性

Title|『花鏡』
Author|世阿弥

『風姿花伝・花鏡』世阿弥(小西甚一編訳、たちばな出版刊)
『風姿花伝・花鏡』世阿弥(小西甚一編訳、たちばな出版刊)

世阿弥が能を受け継ぐ自身の息子や弟子のために残した秘伝。『風姿花伝』は有名だが、『花鏡』はそれ以後の体験にもとづく世阿弥自身の能楽観や作法・心得について書かれている。「どこを開いても短い名言があり、忙しい人にもおすすめ」(石津)。

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私の専門は「神経美学(ニューロエステティクス)」。「美しい」と感じる心の働きや、芸術を生み出す創造性などを、MRIや脳波の測定といった方法で「脳の活動」として明らかにしようという、20年ほど前に生まれた比較的新しい学問だ。

意外に思われるかもしれないが、美学が扱う「美的なもの」の範囲には、優美さや感動といったポジティブなものだけでなく、醜さ・悲しみ・恐れといった、日常では「ネガティブ」とラベルづけされる感覚も含まれる。私が今関心を寄せているのは、「ネガティブなものの価値」が人間にとってどんな意味があるのかを探究することだ。

例えば「悲哀の美」というものがある。死や別れといった悲しみは、どんな人にも、ある日突然訪れる。その悲しみと、私たちはどう向き合えばよいのか。18世紀ドイツの詩人フリードリヒ・シラーは、その手がかりを「悲劇」に見いだした。虚構の物語であれば、人は安全な距離から悲しみを真正面から見据え、味わうことができる。そうして、避けがたい悲しみとの向き合い方を学ぶ。悲劇を味わうとはいわば人生の修練なのだとシラーは説いた。

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脳科学の知見も「悲哀の美」の価値を裏づけつつある。人が「美しさ」を感じているとき、前頭葉の下部、眉間の奥あたりにある「内側眼窩前頭皮質」という部位が活動することがわかっている。実は「悲哀の美」を感じているときには、美しさ一般に反応する「内側眼窩前頭皮質」に加え「中部帯状回」や「補足運動野」といった、他者の痛みや心の痛みに共感するときに働く“社会的な脳”の部位がネットワークとして活動することが見えてきた(ポジティブな「歓喜の美」を感じているときではこのネットワークは働かない)。さらに実験では「悲哀の美」に触れた直後の人は、初対面の相手に対し思わず手を差し伸べたくなる、という傾向を見せた。このように「悲哀の美」には、他者を庇護し、ケアへと開いていく力があるのかもしれない。ネガティブな経験には、それにしかもちえない価値があるのだ。

ビジネスの世界では「リーダーは美意識を磨け」とよく言われる。だが、そこで言及される「美意識」とは西洋の美学を教養として指している場合がほとんどだ。学問として体系化された西洋の美学に対し、日本では世阿弥のような卓越したパフォーマーが、その実践のなかで体得した自らの感性や美意識を書き表して受け継いできた。私がおすすめしたい古典は、能の大家・世阿弥が息子の元雅に残した伝書『花鏡(かきょう)』だ。美の神髄を学べる金言にあふれている。

 『花鏡』には、「動十分心、動七分身(どうじゅうぶんしん、どうしちぶんしん)」という一句がある。心は十分に、すなわち100%込めよ。しかし身体の動きは、七分(7割)に抑えて動かせ、という教えだ。出し切らずに残した3割の余白にこそ、大切なものが宿る。観客はその余白を自らの心で能動的に埋めることで感動が生まれる。また「せぬ隙(ひま)」という言葉もある。「せぬ隙」とは何もしていない間で、それこそが面白い、すなわち心を動かす力が宿っているとする。

このように世阿弥をはじめとして日本の美として見いだされてきたのは、余白や余韻、静寂や空白といったいわば「無の存在」だ。西洋的な視点からは「美の欠如」に映るかもしれないそれを、日本はもうひとつの「美」として慈しんできた。「無いものの存在」に意味を見いだすこの感性もまた「ネガティブなものの価値」のひとつだろう。 

美意識は、単なる装飾ではない。神経美学の研究では、何を美しいと感じるかという美的な判断が、何を善とするかという道徳的な判断に、因果的な影響を与えていることも見えてきている。「何が正しく、何が善いのか」に絶対の正解はない。それでも判断して生きていかねばならないとき、最後に背中を押してくれるのは、その人自身の「何を美しいと感じるか」という美意識なのかもしれない。だからこそ「ネガティブ」とされるものにも価値を見いだす"美の感性"を育てることが、答えのない時代を生きるための道しるべになるはずだ。

石津智大 |心理学者
石津智大 |心理学者

いしづ・ともひろ◎慶應義塾大学大学院心理学専攻から博士号を受領後、ウィーン大学心理学部研究員・客員講師、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ生命科学部上級研究員などを経て関西大学文学部心理学専修教授。著書に『神経美学 美と芸術の脳科学』(共立出版)、『泣ける消費』(サンマーク出版)がある。

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編集=岩坪文子、矢口泰介

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