声なき声に耳を傾ける
Title|『林昭の魂を探して』
director|胡傑
中国のドキュメンタリー監督胡傑による、反右派闘争で投獄され1968年に処刑された女性林昭の生涯を、友人たちの証言や残された文書、写真によってたどった作品。日本では「アジアンドキュメンタリーズ(https://asiandocs.co.jp)」配信サイトから購入、視聴できる。
研究活動のかたわら、2010年ごろから「あじあんコモンズ」として自宅スペースを開放し、立場や国境を超えたさまざまな人が対話できる場を運営している。宿泊もできるのでいつも誰かしらが滞在し、弾圧を受けた中国や香港の民主活動家や表現者たちを一時的に受け入れるセーフスペースとしての役割も担っている。中国国外に逃れた人たちのネットワークや口コミを頼りに訪ねてくることが多い。
中国共産党政権の締め付けは、コロナ禍以降、テクノロジーによる監視体制でますます厳しくなっていることを痛感する。出口が見えず、裁判や司法へのルートも閉ざされ、おかしいこともおかしいと言えず絶望し、精神的に苦しんでいる人も多い。
3カ月ほど滞在していた友人は、少しでもそういう人たちの助けになろうと、上海の病院などと連携して心理カウンセリングやアートセラピーをしていたが、活動のための資金を欧米から得ていたために監視、取り締まりの対象となった。その友人が可哀想なのは、父親が共産党員で、行動を逐一警察に報告されていたこと。もう耐えられない、ということでカナダに移住したが、家族でも密告してしまうような、文化大革命の時代と同じような閉塞感に満ちている。
社会学には「参与観察」という、自分も活動に参加しながらその人たちがどう考えて何をしたいかを研究する手法があるが、「ディアスポラ」、世界各地に離散する中華圏の人々、コミュニティに興味がある。公開するにはリスクが大きいプライベートな事項や緊急事態も多く、研究対象としてはなかなか難しいが、今起こっていることを全体的に理解するうえでも重要だと思うし、声なき声に耳を傾け、大変な努力をして、人間らしく表現することを諦めていない人たちがいることは伝えなくてはならない、と思っている。
私が紹介したいのは『林昭の魂を探して』という、2005年に製作されたドキュメンタリー映画だ。林昭(りんしょう)は北京大学の女学生で、1957年の反右派闘争で上海の刑務所に収監され、不屈の精神で多くの手紙を残し、自らの血で壁に詩を書き、1968年に処刑された人物だ。
中国では1960年代半ばから文化大革命が10年間続くが、その前段階として、思想統制が緩やかになったり引き締められたり、という時代があった。毛沢東が主導した「大躍進政策」で数千万の死者を出す未曾有の大飢饉が発生していた時代だ。「百花争鳴運動」(1956年)で予想以上の厳しい批判を受けた共産党は方針を撤回し、発言した知識人を「右派」として厳しく弾圧・粛清した。
『林昭の魂を探して』を製作したドキュメンタリー監督の胡傑(こけつ)は1958年生まれだが、反右派闘争についてまったくといっていいほど知らず、自身が知る歴史はすべて粉飾されたものだと気づいて衝撃を受けたという。インディペンデント映画として製作され、発表された2005年当時は独立映画祭といった企画で中国の人も見られたりしたが、今は閉鎖に追い込まれ、関係者は逮捕される状態だ。胡傑は中国から出られなくなっている。
もうひとつは、ピューリッツァー賞受賞作家、イアン・ジョンソンが2023年に発表した『中国の反体制活動家たち』(河出書房新社)だ。ここ20年にわたる地下活動家たちとそのネットワークについて書かれた本で、林昭や胡傑についても詳述されている。原題の「SPARKS」とは彼らが放つ小さなロウソクの火であり、燃えさかる太陽の光の例えだ。
今、経済や社会の将来を憂いて日本に移住する中国人富裕層や知識人が増えているが、彼らのなかには、世界の資産、宝ともいえる人々がいる。一様に移民規制で取り締まることには反対する。
日本の10代の人たちには、私たちが目にするもの、聞こえてくるものがすべてではない、ということを伝えたい。日本も少し前までは治安維持法という法律があり、言論統制があった。お隣の国、中国で今起こっていることは実はよくわかっていないし、主流メディアの報道では伝えられないことがある。さらに最近では、認知戦と表現されるが、SNSなどの空間がある種の戦争状態になっている。民主主義国家も、権威主義国家も、自分たちの流したい情報を優先的に流すかで、勝ち負けが決まる。そこでは真実にもとづいている情報を、どう認識するかが重要になる。目に見えないことに目を向けることで、少しずつ自らの視野が多様化していくのではないか。
あこ・ともこ◎大阪府生まれ。大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学教育学系博士号取得。2013年より東京大学大学院准教授、20年より同大学院教授。主な著書・共著書に『香港あなたはどこへ向かうのか』(出版舎ジグ)、『貧者を喰らう国ー中国格差社会からの警告』(新潮選書)など。


