私たちの「世界」をいかに読み解くか。名著や傑作に出合い、未来を語る。各界の研究者、作家、ゲームクリエイターらに聞く、10代と共有したい名作。
ファラデーのろうそく
Title|『ロウソクの科学』
Author|マイケル・ファラデー
電灯もマイクもない19世紀、英国王立研究所の大講堂で700人前後の少年少女に向けてファラデーが行った実験授業6回分の速記録。1861年初版刊。ロウソクの小さな炎から物理・化学の基本原理を鮮やかに解き明かしてゆく。2026年発刊の新訳。
科学を一般社会にも広めたいというのは、ほとんどの科学者の本能的とも言える思いである。マイケル・ファラデーにあっては、この思いは科学研究自体への情熱と並ぶほどのものであって、それは彼の人生そのものに由来していた。
厳しい身分社会の19世紀英国で、庶民階級に生まれて小学校も終えられなかったファラデー。丁稚奉公先の本屋での片手間の学習を通じて、そして王立研究所の化学者デイヴィーの講演会の詳細なノート作成を通じて、自らを当代一の科学者へと鍛え上げたファラデー。科学の真の楽しさを伝える啓蒙活動、あらゆる立場の人に科学への道を開くための講演会活動は、天から自分に課せられた責務だと感じられたに違いない。
そこにはまた、科学が本格的に新技術として社会に還元され始めた時代背景もあった。英国社会の指導層養成を担ったパブリックスクールにおいて、科学はほとんどカリキュラムに入っていなかった。これを変えずに英国の将来はないことは、為政者にもわかっていた。それには市民社会全体の意識の変革が必須だったのである。
ファラデーは科学のもたらす幸福な未来を信じていた。毒ガスも核兵器もない、まだ無垢な、科学の青春時代であった。
王立研究所長となったファラデーが最初にしたことが、それまで不定期に開かれていた市民講演会の定例化、そしてまた年末クリスマス講演会の定例化であった。
そしてそれは即座に伝説となった。数しれぬ元素を単離した化学者にして、電磁誘導(すなわち発電の原理)の発見で電磁気学の基礎を築いた物理学者が登壇した。ファラデー自身である。最先端の実験装置を惜しげもなく駆使しての、華麗なディスプレイ実験が好評を博した。
※
講演会の様子を一世紀半後の今に伝える記録が本書、『ロウソクの科学』である。ファラデーを崇拝する若き科学者、ウィリアム・クルックスの講演会ノートが基になっている。
本書を開いて感じられるのは、見かけの華やかさとは別のもっと本質的な何かである。登場する最新装置が時の経過で、すっかり古びてしまったせいもあるだろう。書物のページから立ち上るのは、科学することの愉悦、研究現場で科学者が感じている興奮と逸楽そのものである。
ロウソクという当時どこにでもあった夜の明かりで話が始まる。ロウソクはなぜ静かに燃え続けるのか。そんなさりげない疑問を抱いて、ロウソクの炎の構造を仔細に見てゆくと、予期しなかった物質や現象が潜んでいることがわかる。原子論が未確立ななか、水、酸素、窒素、炭素、といった単離され理解され始めたばかりの諸物質、当時やっと全貌が見え始めたばかりの電気現象。そして人間の生命活動、といった役者たちが次々と舞台に上ってくる。それらを扱うディスプレイ実験とともに、見知らぬ新しい現象世界が聴衆の眼前に開示されていく。ひっそりとした入山路から入って、薄暗い木々の道を上っていく登山者の前に、突然予期せぬパノラマが展開するようなこの感覚は、科学者すべてに親しいものである。
どのページのどの行にも、ファラデーの科学者としての誠実さが刻印されている。余計な文飾は一切なく、新物質や新現象に素直に向き合い、それを描写するというより、物質や現象に自らを語らせる。レトリックや人間関係の約束事、偶発的感情といったものは取りあえず傍に置かれ、化学物質や物理現象が活劇の主人公となる。良い科学研究に必須の、日常の人間世界からの一時的離脱と自然世界への没入が、言葉ではなく実践として聴衆に体験されるのだ。
そして最後に出てくるのが炎の放つ中心的現象、光そのものである。不思議なことにここでは、彼自身多くの時間を費やして調べた光の性質自体への言及がない。この時点では未知の、講演の数年後にあったマクスウェルによる電磁気方程式の発見と、それによる光の本質の解明を、ファラデーは予感していたのだろうか。講演会は次の言葉で締めくくられる。
“若いみなさんに伝えたいのは「来るべき皆さんの時代において、ロウソクのようになってほしい」という私の願いです。それは皆さんに、穏やかだが輝かしく光を放ってほしいということです。皆さんの行動すべてにあって、人類に対する皆さんの義務の遂行にあって、正しさと有益さを追求して、ロウソクのように世界を照らしてください。”
ファラデーの魂の言葉に付け加えるものは何もない。
ぜん・たくじゅ◎京都生まれの東京育ち。東京大学理学部物理学科卒、同大学院理学博士。専攻は量子力学、数理物理学、社会物理学。米ジョージア大学、メリーランド大学などを経て、現在高知工科大学理論物理学教授。著書に『銀河の片隅で科学夜話』、『渡り鳥たちが語る科学夜話』(ともに朝日出版社)など。



