ギリシャに行くとき、スマートフォンを手放すことになるとは思っていなかった。
多くの人と同じように、私も自分はスマホと健全な関係を築いていると思い込んでいた。仕事に使い、ニュースを追い、家族や同僚とつながり続ける。大学の学長という立場では、返信すべきメールや読むべき見出しが常にある。
そんな私が、アテネで開かれたスタブロス・ニアルコス財団(SNF)主催のノストス・カンファレンスで、たまたまデジタルデトックスのスペースに足を踏み入れた。
コンセプトはシンプルだった。スマホは使わない。空間そのものが心地よく、公園の一角にある屋外スペースには、快適な座席、静かな音楽、塗り絵、クレヨンが用意され、人々はただ互いに語り合っていた。誰も画面を見ていなかった。
ものの数分もしないうちに、私は無意識にポケットに手を伸ばしている自分に気づいた。急ぎのメッセージが届いているわけでも、何か対応が必要な用事があるわけでもなかった。ただ手が勝手に動いたのだ。そのことに自分でも驚いた。
私は何年もの間、リーダーシップや高等教育、そしてテクノロジーがどのように私たちの生活を作り変えているかについて考えてきた。イノベーションを深く信じている。また、大学にはAI(人工知能)やデジタルツールによってますます形作られていく世界で生きる学生を育てる責任があると信じている。
だがアテネのその場所に立っていたとき、私はAIや高等教育の未来について考えてはいなかった。もっと小さな問いについて考えていた。
スマホをチェックすることが、いつから「選択」ではなく「依存」になっていたのか。
テイクアウトを待つ間。エレベーターに乗っている時。会議が始まる前に席に着いた時。かつてそれらは、心が自由に漂う瞬間だった。時にはそこからアイデアが浮かんだ。時には何も起こらなかった。それで良かったのだと、今の私は思う。
いまでは、そうした瞬間は始まる前に消費されてしまうことが多い。
考えれば考えるほど、私は単なる習慣に対処しているのではないと気づいた。私はスマホをチェックすることに依存していたのだ。必要だから手を伸ばしていたのではない。そうすると思い込んでいるから手を伸ばしていたのだ。
長年、情報こそが最も価値ある資源だと語られてきた。しかし私は次第に、それは注意(アテンション)ではないかと思うようになった。情報はあらゆるところにあるが、注意には限りがある。あらゆるアプリ、通知、見出し、アルゴリズムがそれを奪い合っている。
だからといって、テクノロジーが敵というわけではない。大学は、学習、研究、発見のためにテクノロジーが生み出す並外れた可能性を、これからも歓迎すべきだ。私自身もそうしている。だが、テクノロジーを受け入れることは、内省する力を手放すことではないはずだ。
リーダーとして私が下してきた最良の決断は、メールに返信している最中に生まれたものではほとんどない。それは、余韻の残る会話の後、頭をすっきりさせる散歩の後、あるいは「もう一つ情報を取り込もう」としていない瞬間に訪れた。内省は、奇妙なことに、時代に逆行するものになりつつある。
まるで、あらゆる隙間時間を最適化しなければならないという強迫観念があるかのようだ。待っている間は画面をスクロールすべき、歩いている間はポッドキャストを聴くべき、静かに座っているなら他の何かをするべき、といった具合に。デジタルデトックスのスペースは、そうした常識に一石を投じるものだった。
それはまた、私が最近読んでいた別の考え方も思い出させてくれた。ワシントン・ポスト紙の記事は、スマートフォンを一定期間、自ら進んで昔ながらのフリップ式携帯電話、いわゆる「ダムフォン」に持ち替えた人々を追ったものだった。この実験はテクノロジーを永久に捨てるためのものではない。画面をチェックしたいという絶え間ない誘惑が消えたとき、何が起こるかを見るためのものだった。
それが多くの人にとって正しい答えかは分からない。私たちの多くにとって、それは現実的ではない。仕事も家族も、つながり続けることに依存している。
だが、目的はスマホを手放すことではないとしたら? ただ依存を一時的に断ち切り、自分がまだ主導権を握っていることを思い出すだけでいいとしたら?
おそらく答えは、1日に1時間、スマホを片づけることだ。それも、就寝前だけではなく、あらゆる空白の瞬間を埋めたくなる日中に。通知を確認せずに散歩に出ることかもしれない。同僚と昼食を取るときに、スマホを見えない場所に置くことかもしれない。
私自身については、真剣に塗り絵の本とクレヨンを買おうと思っている。少し馬鹿げて聞こえるかもしれないが、大人たちが並んで座り、色を塗り、話をし、ただその場に「いる」姿には、驚くほど解放的な何かがあった。時に私たちに必要なのは、心を自由に漂わせながら手を動かせる、何か別のことなのだ。
帰国してから、私は自分の習慣により注意を払うようになった。今もスマホは持ち歩いているし、それに頼ってもいる。だが時折、ただ空いた時間があるという理由だけで手を伸ばしそうになる自分に気づいたときは、立ち止まる。すべての「間」を埋める必要はない。
実際、テクノロジーがかつてないほど強力になっているこの時代に、私たちができる最も重要なことのひとつは、自分の注意は自分のものだと認識することかもしれない。どんな依存も、最初の一歩はそれを認めることだ。次のステップは、いつ、何に自分の注意を向けるかを、自分で決めることである。



