5月、ある日本の製造企業の会議室で、中東情勢について役員を含めた激しい議論が交わされていた。
実はそれは、今年ではなく2024年5月の話である。
現在のホルムズ海峡封鎖を伴う中東危機は、今年2月の米国によるイラン攻撃から本格化したと認識されることが多い。しかしこの企業は、それ以前から中東情勢の変化を継続的に注視していた。
24年、イスラエルとイランは、それまでの代理勢力を介した対立の段階を超え、互いに直接ミサイルやドローンを撃ち込むという新たな局面に入った。この出来事は、中東情勢において重要な地政学上のレッドラインが踏み越えられた瞬間として位置付けられることが多い。
同企業はこの出来事をトリガーとして、中東における地政学リスクのシナリオを再検討する必要を感じ取り、冒頭の会議を開催した。
論点は、「次に何が起きるか」ではなかった。
むしろ、
「事前に作成していたシナリオのうち、今回はどれに該当するのか」
「新たに追加すべきシナリオはあるのか」
「どのような事象が発生した場合に、投資方針を見直すべきか」
といった点だった。
会議では多くのシナリオが選択肢として検討されていたが、当然ながらそのうちどれが現実になるかは、誰にも分からなかった。
しかし彼らは、「ありそうな未来」を当てることだけを目的としていなかったのである。重要視していたのは、「想定の幅を広げる」ことだった。
結果的に25年6月、米国はイランの核関連施設への攻撃に踏み切ることになる。当時、こうした展開を可能性のひとつとして指摘する専門家は存在したが、多くの企業にとっては依然として蓋然性の低いシナリオだった。しかし、同企業はそれを検討対象から外してはいなかった。
同企業は、あらかじめ定めていた方針に従って対応を進め、その後、現在に至るまで事業に大きな混乱を来すことなく、中東におけるリスクの露出を減らし続けている。
危機のエスカレーションを予測していたからではない。幅広い想定によって、盲点を潰していたからだ。
この話にはヒーローがいない。
未来を言い当てた天才的な社長がいたわけではない。
卓越した洞察力をもつリスク担当役員が経営陣を説得した話でもない。
同社を守ったのは、地政学情勢の変化を継続的に監視し、シナリオに落とし込んで意思決定につなげる「仕組み」である。だからこそ再現可能性が高く、これから多くの企業に求められる地政学リスク管理の方向性を示していると私は考えている。
「内なるリスク」から「外なるリスク」への大転換
私は20年以上、グローバル企業のリスク管理と危機対応に携わってきた。現在は英国のリスクコンサルティング会社、コントロール・リスクスの日本代表を務め、日本企業の地政学リスク対応を支援している。
20年前、多くの企業が重視していたのは、会計不正や法務、コンプライアンス、労務問題といった社内起因のリスクだった。これらは内部統制によって、一定程度は管理可能なものだった。
しかし現在、多くの企業のリスクレジスター(リスクの一覧)を見渡すと、その内容は大きく様変わりしている。
国家間の対立、輸出規制、経済制裁、サプライチェーン分断、重要資源の囲い込み——。
これらは企業の外側で発生する環境変化であり、多くの場合、地政学リスクという言葉で括られる。
20年前と現在では、経営者が重要だと認識するリスクの質が明らかに変わった。それはなぜか。企業が依拠してきた国際環境が変わったからである。



