私たちは長い間、自由貿易は拡大していくものだと捉えていた。そして、事業に必要な部材は世界中から調達でき、効率性の追求が最も合理的な経営判断であると信じて疑わなかった。海外に工場を建てれば、コストを抑えながら安定操業できる。経済合理性と国家安全保障は、別に動く。そう考えることができた。
しかしここ数年で、それらの前提は急速に揺らいでいる。
企業活動はもはや市場だけによって規定されるものではない。国家間の競争関係や安全保障上の思惑が、事業戦略や投資判断そのものに影響を与えるようになった。地政学リスクが経営課題として急速に存在感を増しているのは、こうした背景があるからだ。
経営者を思考停止させる「ふたつの諦め」
もっとも、多くの企業はその重要性を理解しながらも、有効な対応策を見出せずにいる。その背景にはふたつの「諦め」があると考えている。ひとつは、「未来には何が起きるか分からないのだから、備えようがない」という諦め。もうひとつは、「国家間の紛争に対して企業ができることなど限られている」という諦めだ。
ひとつめの諦め、「未来に何が起きるか分からないのだから、備えようがない」という意見は、一見もっともらしい。しかし、正しいのは前半だけだ。未来を正確に予測することは難しい。だが、それと「備えられない」こととは別問題である。
シナリオプランニングの目的は、未来を当てることではなく、想定外を減らすことだ。企業が向き合うべきは、「次に何が起きるか」を言い当てることではなく、「何が起きても対応できる選択肢を持っているか」である。
また、ふたつめの諦め、「企業が国家に対してできることは限られている」という指摘も、部分的には正しい。一企業が国家指導者の意思決定を簡単に変えることはできない。
しかし、自社の投資先や調達先を分散したり、リソース配分や在庫戦略を見直したりすることはできる。企業は世界をコントロールできないが、自社が世界から受ける影響の大きさは、変えられるのだ。
地政学として語れば、「なぜ米中対立は起きるのか」という問いになる。
地政学リスクとして語れば、「米中対立によって自社は何を変えるべきか」という問いになる。
地政学は国家を主語とするが、地政学リスクは企業を主語とする。
経営者が向き合うべきは、もちろん後者である。
地政学リスクを考える意味は、この先何が起きるかを正確に予測することではない。変化する世界の中で、自社が取り得る選択肢を増やし、より良い意思決定を可能にすることだ。
本連載では、そうした誤解や思い込みを整理しながら、地政学を「教養」から「意思決定のツール」へと変えるために、企業がどのような仕組みや組織能力を構築すべきかを考えていきたい。
※本稿の事例は実際の企業支援経験を基に構成しているが、守秘義務保護のため、一部の事実関係を変更している。


