レイオフから3週間が経ち、すべてが回復したように見えた。業務の進行は予定通りに戻り、全員参加のミーティングの出席率も高かった。廊下での雑談はいつも通りに聞こえ、どの会議でも人々は適切なタイミングでうなずいていた。
しかし、人々は回復していなかった。回復したように見せる術(すべ)を身につけただけだった。そして、経営陣のいるフロアから日常的なシグナルを眺めているだけでは、その違いに気づくことはできなかった。
これこそが、自覚の有無にかかわらず、現在多くの組織が陥っている状況である。組織は絶えず「喪失」を生み出している。レイオフ、組織再編、開発中止になった製品、解散したチーム、ある月曜日から次の月曜日までの間に組織図から消えていく同僚たち。それにもかかわらず、その喪失が残された人々にどのような影響を与えるかを表す言葉を、組織は持ち合わせていない。そのため、その感情は別の名に置き換えられる。「変化疲れ」「エンゲージメントの低下」「抵抗」「士気の低下」といった言葉に。
多くの場合、その正体は「悲嘆(グリーフ)」である。処理されず、認められず、そして雇用不安が漂う現状においては、注意深く隠されているのだ。
「誤認」という問題
一般的な言葉遣いが何をもたらしているかに注目してほしい。「変化疲れ」という言葉は、休息によって解決できる疲労を連想させる。「抵抗」は、より良いコミュニケーションによって解決できる態度の問題を連想させる。これらのラベルはすべて、感情的な現実をパフォーマンスの問題へと変換してしまう。それは都合が良いからだ。パフォーマンスの問題には、責任者とアクションプランが存在する。しかし、悲嘆にはそのどちらもない。
この言い換えは、悪意から行われることはめったにない。大半のマネージャーは、ほかに適した言葉を与えられていないだけなのだ。彼らはイライラ、引きこもり、細かなミスの見落としを目にし、自分が持つ唯一の枠組みを適用しようとする。その結果、解散したチームを静かに悼んでいる従業員に対して、能力開発計画が適用されることになる。
この問題の規模は小さくない。ガートナーの調査によると、一般的な従業員が1年間に経験した計画的な組織変更は、2016年の2回から10回へと増加した。一方で、組織変更を支持する意欲のある従業員の割合は、約4分の3から半数を大きく割り込むまでに急落した。この急落に対する一般的な解釈は「疲労」である。しかし、年に10回の変更とは、チーム、日課、アイデンティティ、人間関係に対する10回の崩壊を意味する。すなわち、そのほとんどが悼まれることのない、10回の「喪失」なのだ。
疲労感は本物だ。だが、その根源にあるのは悲嘆である。人々は変化によって奪われ続けるものを悼んでいるが、それを口にする方法を誰も提供していないのだ。
原因の誤認
名前の誤認は表面的な問題にすぎない。より深刻なのは、その悲嘆がどこに帰属させられるかである。
レイオフによる痛みを組織が認める際、その説明として「苦渋の決断」という言葉すら使われることは稀になった。代わりに「俊敏性(アジリティ)」「効率性」「規模への適応」といった言葉が使われる。これらの抽象的な表現は、必要性に駆られたときによくある作用をもたらす。すなわち、自らの「選択」を「自然の法則」へと変換してしまうのだ。それらは現実の何かを指し示してはいる。直面している圧力は作り話ではないからだ。しかし、その瞬間におけるそれらの役割は、追及を終わらせることにほかならない。自然の法則を悼むことはできないし、監査することなど到底不可能だ。そこには主体も、責任の所在もないのだから。
この抽象化が何を守っているかに注目してほしい。人員を削減するために「俊敏性」が持ち出される一方で、あらゆる意思決定を遅らせていた承認の階層構造は手つかずのまま維持される。人員削減のために「効率性」が叫ばれる一方で、組織の肥大化を招いた意思決定の構造が検証されることはなく、形式的な説明がなされるだけで、大半は非公開のままである。従業員は、進化し、リスキルし、より適応力を高めるよう求められる。これほどまでの俊敏性を要求する構造自体が、唯一その要求を免除されているのだ。従業員は変数であり、システムは定数なのである。
こうして悲嘆は、すでに「終わった出来事」に帰せられる一方で、それを生み出した仕組みは手つかずのまま残る。そして、悲嘆に対処している人々は、その仕組みのなかで働き続けなければならない。彼らは心のどこかで気づいている。去っていった同僚たちを悼むと同時に、彼らを排除したシステムは何一つ変わっていないという、より静かな事実に胸を痛めているのだ。
だからこそ、悲嘆は解消されない。悲嘆が解消されるのは、喪失が終わったときだ。しかし、この喪失は終わっていない。次の喪失がすでに予定されているのだ。
繕われた表面
この悲嘆は水面下に隠され、それを覆い隠すメカニズムとなっているのが雇用不安である。求人・クチコミサイトのグラスドア(Glassdoor)は、この状況をもたらしているパターンを「フォーエバー・レイオフ(終わりのない人員削減)」と呼んでいる。これは、度重なる削減が不安、不信、不満の文化を生み出し、会社評における「不信感」や「方向性の不一致」といった言葉の出現率が2024年以降、急増している現象を指す。常に次の組織再編の噂が流れている状況では、目に見える動揺はリスクとみなされる。動揺しているように見える従業員は脆弱に見え、脆弱に見える従業員は人員削減の対象になりやすいと思われるからだ。そのため、人々は正常を装う。「所詮はビジネスだから」。リーダーが議論を打ち切るために使うこの言葉は、従業員が自らを沈黙させるための言葉となる。
同じ全社会議(タウンホールミーティング)を、2つの席から想像してみてほしい。
最前列から見ると、リーダーは素晴らしいミーティングを行っているように思える。新しい運営モデルが提示され、会場には熱気が満ち、人々は身を乗り出している。ある従業員が、遠慮がちに、まるで申し訳なさそうに「廃止されたチームが担っていた業務はどうなるのか」と尋ねると、その回答は一言二言で今後のチャンスの話へと移行し、質問者はうなずく。全員がうなずいている。リーダーは、組織が困難な時期を乗り越えたと確信して退室し、上層部にもそう報告するだろう。
今度は、同じ瞬間を4列目の席から見てみよう。質問した従業員は、その廃止されたチームの隣で6年間働いていた。その問いは、業務プロセスについて尋ねたものではなかった。それは、「同僚たちはどこへ行ってしまったのか、私たちは彼らがいないことを寂しく思ってもいいのか」と尋ねるための、唯一許された方法だったのだ。今後のチャンスへのすり替えは、誰も求めていない問いに対する回答だった。4列目の席の人々は、それによって本当の問いが歓迎されていないことを悟った。だから彼らは、ここでは本当のことを口にできないと確信したときと同じように、うなずいたのである。
同じ空間にいながら、それぞれの席で得た確信は対照的だった。リーダーは回復を確信し、従業員は作られた表象を確信した。嘘は何も語られなかったが、真実もまた、何一つ語られなかった。そして、経営陣が見ているのは会議の表面だけであるため、彼らの認識のなかでは、回復の「演技」が「回復そのもの」へと置き換わってしまったのだ。
抑圧された悲嘆は、抑圧されたままでは終わらない。ただ、悲嘆として認識できなくなるだけだ。それは、適切な測定ツールが最終的に検知する場所で再び表面化する。自発的な努力の消失、勤務時間中に更新される履歴書、そして誰も反論しなくなった会議といった形で。グラスドアが197社、304件のレイオフを分析したところ、レイオフによって不満を募らせる従業員が26%増加し、求職活動を始める従業員が40%急増した。しかも、その多くが優秀な人材であった。そして、彼らの精神的な苦痛は予定通りには薄れない。これら従業員の評価やクチコミに含まれる不安を表す言葉は、レイオフ後の1年目で基準値を67%上回り、2年目には90%上回った。感情の回復には3年近くを要している。多くの人事責任者が、士気や生産性の回復には4カ月から1年以上かかると答えている一方で、経営陣の多くは3カ月以下で回復することを期待している。
繕われた表面こそが、経営陣の期待する「3カ月での回復」というシナリオを信じ込ませる原因となっている。正常を装う演技が、経営陣の「回復した」という思い込みを助長し、それが次の組織変更を正当化する。この停滞は、静かに、そして効率的に、設計通りに機能している結果なのだ。
リーダーたちも同じ仕組みのなかで悲嘆に暮れている
経営陣を何の影響も受けない受益者として扱い、分析をここで終わらせるのは容易だろう。しかし、データがそれを許さない。ギャラップ社の最新の調査結果によると、マネージャーのエンゲージメントは2022年以降9ポイント低下し、事実上、部下と同水準にまで落ち込んでいる。かつてその役職に伴っていた「エンゲージメントの優位性」は消失したのだ。他者全員の悲嘆を受け止める責任を負う階層が、自身もまた最も重い負担を背負っている。
ここで、よくある2つの枠組みが浮上するが、そのどちらも拒絶すべきである。一つは、リーダーは他者をケアする前にまず自分をケアしなければならないとする「酸素マスク」理論。これは支援する者とされる者の階層構造を温存したままである。もう一つは、誰もが共に苦しんでいるとする「集団的苦痛」理論だが、これは現実の非対称性を曖昧にしてしまう。レイオフの通告シナリオを読み上げたマネージャーと、チームメイトが荷物をまとめるのを見つめていた従業員が抱える悲嘆は、同じではない。一方は当事者としての主体性と罪悪感を、他方は喪失感と恐怖を背負っている。これらを同一視することは、従業員に対して上長への同情を求めることになり、組織で最も弱い立場にある人々にさらなる感情労働を課すことになる。
より誠実な見方は、いっそう厳しいものだ。マネージャーたちは同じ構造のなかで悲嘆に暮れており、さらにその構造の「道具」として使われたという重荷を背負っている。2つ上の役職で下された決定、すなわち自らが関与していないところで決定された人員削減の数字を伝え、その後、今後の進め方に関する会議を仕切らなければならなかったマネージャーを想像してほしい。その人物は、喪失を象徴する存在であると同時に、その犠牲者でもあるのだ。彼らの悲嘆は最も口にしがたい。なぜなら、それを表現することは、公に支持することを求められている決定に対する「不忠」とみなされかねないからだ。
これこそが、この停滞の全体像である。システム内の誰も、その構造を指摘できる立場にない。生き残った従業員にはその余裕がなく、マネージャーにはそれが許されていない。大半の経営幹部は「苦渋の決断」という枠組みを信じ込んでいる。なぜなら、そう思わなければ職務を全うできないからだ。結果として、一人ひとりの悲嘆は個人化される。誰もが内々に処理し、何も変わらない。
プログラムではなく「介入」を
何かを構築しようとするのが、組織の性(さが)である。レジリエンス研修、ウェルビーイング講座、あるいは善意に満ちたファシリテーターの導入。しかし、これに抵抗してほしい。変化のない構造に悲嘆対策のプログラムを継ぎ接ぎしたところで、予算をかけただけの「繕われた表面」にすぎない。本当に必要なのは「介入」である。すなわち、パターンを打破するための小さな構造的行動なのだ。
「疲労」という言葉を廃止する。 次回、エンゲージメントデータの検証会議を行う際、その会議に限り一般的な言葉遣いを禁止してみてほしい。誰かが「疲労」や「抵抗」という言葉を使いそうになるたびに、代わりに「何が失われたのか」を具体的に表現させるのだ。議論は気まずく、具体的なものになるが、それこそが進むべき方向である。
喪失とロードマップを切り離す。 「終わったことを悼む」ことと、「次に待ち受ける未来に興奮する」ことを、一つの会議で誠実に両立させることはできない。後者が必ず前者を呑み込んでしまうからだ。未来に関するスライドを一切見せない別の場所、別の日を設け、そこで喪失そのものを認めよう。従業員がリーダーについて未来へ進むことができるのは、何かが終わったという事実を認めることが許された後なのだ。
黙祷ではなく、意思決定の「事後検証(オートプシー)」を行う。 大規模な人員削減から60日後、その決定を下した責任者たちを招集し、次の一つの問いを投げかける。「私たちの計画、予測、要員配置の何が、このような結果を招く要因となったのか。そして、それについて私たちは何を改めたのか」。誠実な答えが「何もない」であるなら、組織に対してそう公言すべきだ。それにより、不愉快な午後を1日過ごすことになるかもしれないが、それを怠れば、真実そのものが失われることになる。
マネージャーに感情の吐き出し口を設ける。 マネージャーは部下の前で決定を嘆くことはできないし、そうすべきでもない。しかし、行き場のない悲嘆は、無理に作った明るさとして部下に伝わり、部下はそれを正確に「恐怖」として受け取る。レイオフの告知を行ったマネージャーたちを、部下や決定を下した経営幹部のいない場所に集め、自らが選択したわけではない喪失の責任者であるという、口にできない思いを互いに吐き出させるのだ。たった一度のミーティングだが、これが実施されることはほとんどない。
停滞がもたらすコスト
そのコストは通常「士気」として表現されるが、「士気」という言葉ではその影響をあまりにも過小評価している。
悲嘆は隠されているわけではない。ギャラップ社のグローバルデータによると、日々の悲しみ、不安、孤独感は10年前の水準を大きく上回った状態が続いており、生活評価は過去最低を記録している。また、グローバル・エンゲージメントの2ポイントの低下は、生産性の損失に換算すると4380億ドル(約71兆6000億円)に相当する。繕われた表面は、廊下での会話や全社会議をごまかすことはできても、調査の測定をごまかすことはできない。人々に、体系的かつ機密が保持された環境で「昨日、どのように感じたか」を尋ねれば、彼らは本音を語るのだ。
したがって、最も深刻な損失は「傾聴の放棄」である。シグナルは毎年そこに存在している。しかし、それは喪失を生み出し続ける構造のなかで回復を演じている何百万人もの人々の測定可能な痕跡としてではなく、単に対処すべき「一時的な士気の低下」として解釈されている。組織は悲嘆を乗り越えることができる。しかし、悲嘆の証拠を「誰か他人のエンゲージメントの問題」として処理することを四半期ごとに繰り返す組織は、生き残ることはできない。
レイオフという苦渋の決断自体が、悲嘆の根源だったわけではない。それを不可避とした仕組みこそが根源であり、その仕組みは今も稼働し続けている。そして、それを静かに悼むのに忙しすぎて疑問を呈することができない人々によって、その仕組みは維持されているのだ。組織は次の喪失を遠いリスクとして扱っているが、それはすでに、生産ラインに乗っているのである。



