「下ではなく、前を見るんだ」――これは、私が文字通り「決死の跳躍」に挑む前に、友人のロイがくれた賢明なアドバイスだった。世界で最も高いバンジージャンプのひとつ、ビクトリアの滝で約120メートルのフリーフォール(自由落下)を体験する直前のことだ。
1カ月前、私はリサーチパートナーのジェニファーとともにザンビアへと旅立った。死ぬまでにやりたいことリスト(バケットリスト)のこの項目を達成するためだ。小学3年生のときにツリーハウスから落ちて以来、私は高所恐怖症を抱えて生きてきた。
それでも数年前、私はバンジージャンプをバケットリストに加えた。そして今回の旅で、ついにその時が来たと決めた。恐怖を脇に置き、より強い動機に意識を向けた。勇気は確かにあった(人によっては、少し無謀だと言うかもしれない)。だが何よりも大きかったのは、希望だった。
なぜ「希望」が重要なのか
ザンビア、ジンバブエ、南アフリカなどアフリカを旅している最中、ノースカロライナ州立大学による最近の研究に関する記事を目にした。それによると、困難な状況下においては、マインドフルネスよりも「希望」のほうがさらに強力な効果を持つ可能性があるという。研究の共同執筆者は、調査対象者についてこのように記している。「希望に満ちた見通しを維持した人々は、仕事における高い回復力(レジリエンス)とエンゲージメントを示した」
マインドフルネス(呼吸、内省、意図的な意識)は、今この瞬間に留まるために重要だ。しかし、私たちを前へと推し進めるのは希望である。これは単なる「願い事」や「盲目的な楽観主義」のことではない。希望とは、前向きなマインドセットであり、進むに値する未来を思い描く能力のことだ。
ビクトリアの滝に架かる橋の縁に立ったとき、怖くなかったのかとよく聞かれる。実を言うと、恐怖で震えていた。しかし、私は自分の意志でそこに立っていたのだ。
その8カ月前、私はがんの診断を受け、外科手術で肺容量の25%を切除していた。さらにその前年には、27年間連れ添った妻と離婚していた。私はこれまでに恐怖を十分に味わってきた。バンジージャンプを飛ぶ決意をしたのは、滝を見下ろす瞬間の数週間前だった。決意した瞬間、私は「何が起こるか(不安)」に焦点を当てるのをやめ、「これから何をするか(未来)」に向かって動き始めたのだ。
希望もまったく同じように作用する。
それは、私たちが進むべき未来を与えてくれる。私たちにはまだ選択肢があり、影響力を行使できること、そして単に状況に流されるだけの乗客ではないことを思い出させてくれるのだ。
リーダーの「緊張・疲弊」を克服する
この経験から、私は長年悩んできたある問いについて考えさせられた。絶え間ない変化が生む混沌とした渦の中で生きるリーダーたちが支払っている、真の代償とは何だろうか。
多くの人はこの問いに対し、ストレス、燃え尽き症候群、疲弊といった言葉を返すだろう。それらも確かに一因だ。しかし、より深い代償は別にあると私は考えている。
私たちは、希望を失い始めているのだ。
ジェニファーと私は、多くのリーダーが今まさに直面している状況を「リーダーシップ・ストレイン(リーダーシップに伴う緊張・疲弊)」と呼んでいる。これは、圧倒されるような過負荷感と疲労が組み合わさった状態だ。
圧倒されるような過負荷感は、経済的な不確実性、地政学的な不安定さ、人工知能(AI)、市場の混乱、規制のシフト、そして暗いニュースが24時間絶え間なく押し寄せることなどから生じる。
一方で疲労は累積的であり、時間の経過とともに体に蓄積していく。
やがて、多くのリーダーは「これこそが仕事に求められるものだ」と自分に言い聞かせるようになる。
問題は、この過度な緊張状態を常態化させてしまうと、そもそも効果的なリーダーであるために必要だった能力を発揮できなくなることだ。創造性が損なわれ、明晰な思考が鈍り、視野が狭くなる。感情をコントロールしたり、立ち止まって何が起きているかを見極めたりすることが難しくなる。絶え間ない変化に押しつぶされそうになっていることを認めるのは「弱さ」だと感じ、リーダーたちは常にプレッシャーの中で働き続けるための方法(往々にして不健康で持続不可能な方法)を模索する。
リーダーシップ・ストレインは必ず組織全体に蔓延し、戦略フォーカスの曖昧さ、意思決定の質の低下、感情的な不安定さの増加など、さまざまな形で現れる。チームは意図的な行動をとれなくなり、目先の出来事への「事後対応(リアクティブ)」に追われるようになる。
だが、さらに深刻な問題は目に見えにくいところにある。
絶え間ない緊張下で働いていると、人々は物事が「自分を通じて」起きているのではなく、「自分に対して(受動的に)」起きていると感じ始める。身動きが取れず、無力であるように感じるのだ。
この傾向が最も顕著に現れるのが中間管理職だ。シニアリーダーには方向性に影響を与える権限が多少なりともある。現場の従業員は、重大な戦略的意思決定の責任を負わない。しかし、その間に挟まれた中間管理職は、双方からのプレッシャーを吸収することになる。彼らは、結果に対するコントロール権が限られているにもかかわらず、相反する要求の板挟みになり、組織の緩衝材(ショックアブソーバー)となってしまう。
時が経つにつれ、それは大きな打撃となる。勇気と混ざり合った「希望」は、自分の選択には意味があり、自分の行動が次に起こることに影響を与えることができるという信念を育んでくれる。
私たちが待ち望んでいたのは、私たち自身だ
南アフリカに滞在中、1978年にジューン・ジョーダンが書いた詩の一節を思い出した。これは、1956年にアパルトヘイトの通行証法に抗議して行進した女性たちを称えるために書かれた詩だ。
最後の一行にはこうある。「私たちが待ち望んでいたのは、私たち自身なのだ」
この言葉が、頭から離れなかった。
私たちは、冷笑主義(シニシズム)に陥りやすい時代に生きている。どのニュースの見出しも、私たちの生活を形作る力が個人で影響を及ぼすにはあまりにも巨大で、複雑で、強力すぎると思い知らせようとしているかのようだ。
バラク・オバマは、自身の最大の政治的ライバルはシニシズムだったと語った。ゲームは最初から仕組まれており、自分が何をしても無駄だと人々が信じ込んでしまえば、その時点で自らの力を放棄したことになる。彼は、シニシズムは一つの「選択」であり、希望こそがより良い「選択」であることに気づくよう、私たちに促した。
このことは、今まさに、かつてないほど真実味を帯びている。
絶え間ない変化という混沌とした渦が消え去ることはない。AIは今後も働き方を再構築し続け、市場の安定性は変化し続けるだろう。そして、政治的・経済的な不確実性は今後も私たちを試し続ける。
しかし、そのような混沌の中でも、私たちは希望を選択することができる。何に注意を向けるべきか、どのような未来を創造したいかを、私たちは自ら選択できるのだ。
今回の旅と、ビクトリアの滝の縁から一歩を踏み出す直前の決定的な瞬間を振り返るとき、私の心に深く残っているのはそのことだ。
崖の縁にたどり着く前に、どのような行動をとるかを早くから決意し、決めておかなければならない。リスクを推し量り、自分自身とプロセスを信じ、そして力を抜いて手放すのだ。勇気を持ち、あとは希望に身を委ねて前へと進もう。
その最初の一歩は、恐ろしいものかもしれない。それは当然のことだ。だが、あなたは一人ではない。あなたを支え、応援してくれる適切な人々に囲まれていることを忘れないでほしい。
誰も私たちを救いには来ない。
私たちが待ち望んでいたのは、私たち自身なのだ。
そしてこれこそが、いま最も希望に満ちたリーダーシップの教訓なのかもしれない。



