毎年7月4日の独立記念日を迎えると、米国人はおなじみの儀式に興じる。国旗が掲げられ、花火が夜空を彩り、建国を祝う祝典が催される。だが、こうした伝統の裏で、「祖国を愛するとは一体どういうことなのか?」という驚くほど複雑な問いを巡って意見の対立が深まりつつある。
米国人の中には、愛国心とは、国家と制度に対する誇り、忠誠心、そして感謝の念を意味すると考える人もいる。他方で、愛国心とは、国家の弱点に立ち向かい、変革を提唱する姿勢を含むものだと考える人もいる。近年、公の議論では、米国人が政治的に分断されているだけでなく、愛国心そのものの意味を巡っても対立していることが鮮明になっている。この区別が重要なのは、多くの学者が、愛国心とナショナリズムは同義語として扱われることが多いものの、実際には同じではないと主張しているからだ。
愛国心とナショナリズムは似て非なるもの
政治哲学者や歴史家は、長らく愛国心とナショナリズムを区別してきた。「ブリタニカ百科事典」によれば、愛国心とは一般的に、自国や公共の利益への愛着や献身を指すのに対し、ナショナリズムは特定の国民意識への忠誠心と結び付けられることが多く、優越性や排他性に関する信念を含む場合がある。「スタンフォード哲学百科事典」も同様に、愛国心とナショナリズムはいずれも集団への愛着や帰属意識を伴うが、愛国心は自国を中心とするのに対し、ナショナリズムは特定の国家観や文化意識を中心とすることが多いと指摘している。
しかし実際には、この区別は明確ではないことが多い。ほとんどの人は、自らを「愛国者」あるいは「ナショナリスト」と自認しているわけではない。むしろ、自身の価値観や経験、自国が象徴するものについての信念を通じて、国家への誇りを解釈しているのだ。
国民の誇りの低下
愛国心を巡る議論が白熱する一方で、国民の誇りを示す指標は低下している。米調査会社ギャラップが昨年実施した世論調査によると、米国人であることを「非常に誇りに思う」と回答した割合はわずか58%にとどまり、同社がこの調査を開始して以来、最低の水準を記録した。誇りの低下は特に若い世代で目立っている。
この調査結果は、多くの米国人が依然として祖国とのつながりを感じている一方で、そのつながりの感じ方が以前の世代とは異なる可能性を示唆している。もはや問題は、米国人が祖国を愛しているかという単純なものではなく、その愛をどのように定義するかという点が問われているようだ。
批判は愛国的な行為になり得るのか?
愛国心に関する議論で最も論争の的になりやすい点は、批判を巡る問題だ。国家に対する公の批判は忠実でない、あるいは無礼だと感じる人がいる一方で、批判こそが愛国心に求められる要素だと考える人もいる。この対立は今に始まったことではない。
米国では歴史を通じて、公民権や労働者、女性、障害者の権利、その他の社会改革を求める運動は、国家が掲げる理想を実現できていないと主張する人々によって推進されてきた。こうした批判は必ずしも国家への拒絶に根ざしていたわけではなく、国はもっと良くなるはずだという信念に基づいていた。この視点から見れば、愛国心とは単なる称賛以上のもの、つまり責任を伴うものなのかもしれない。



