自己認識もまた、比較死生学において鍵となる要素だ。ゾウは、大型類人猿、イルカ、カササギ(カラス科の鳥)などと並び、鏡像自己認識(鏡に映る姿を自分と認識できること)テストをクリアする数少ない種の一つであることが、2006年に学術誌『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』に掲載された論文で示された。鏡像自己認識は、完全ではないものの、自己認識能力の指標の一つとして生物学者に広く受け入れられている。前述の『PNAS』論文では、対象となった3頭のゾウのうち、1頭が明確にテストをクリアした。
自分自身を認識できる動物は、その延長として、「他者」に該当するなんらかの概念を持っている可能性が高く、他個体の不在に気づくと考えられる。だからといって、ゾウが「死」を、ヒトと同じような形で理解していることが証明されるわけではない。それでも、死体のそばにたたずむゾウの頭のなかで、何か意義深いことが起こっている可能性を、容易に棄却できない理由にはなるだろう。
本当にゾウの「葬儀」なのか?
率直に言って、ゾウが死んだ仲間を弔うという考えには一つ欠点があり、そのため生物学者たちは慎重な見解を保っている。これを「葬儀」と呼ぶのは、ヒトの儀式を指すヒトの言葉の借用であって、このような飛躍には懐疑的であってしかるべきなのだ。
私たちにとって「葬儀」は、集団内で共有された象徴的意味や意図を含むものだ。一方、生物学者が記述してきたのはゾウの「行動」──すなわち、死体を探査するような接触、普段は見られない静けさや興奮状態、再訪、といったもので、それらに伴う内的経験ではない。
一部の生物学者は、これらの行動は、ヒトが定義する悲嘆反応の証拠というより、新奇な状況や、生物学的に意味のある刺激(具体的には、ゾウの死体のにおいや形)に対して、注意が活性化した状態とみなすほうが適切だと主張する。他方、同種他個体に対してのみ見られる反応であることや、ゾウの社会的絆に関する既存の知見に照らして、悲嘆反応に近いものだとするシンプルな説明の方が、むしろ最節約的だ(parsimonious:最小限の仮説に基づくという意味で最良の説明)という反論もある。
これは、動物行動学分野における決着のついていない論争の一つであり、一つの巧妙な実験によって解決することはないだろう。言語を持たない動物、特に大型種における主観的経験は、野外での検証が極めて困難な課題の一つだ。
とはいえ、行動そのものが実在することに異論の余地はない。東アフリカ各地で数十年にわたり続いてきた、複数のゾウの長期研究プロジェクトで、何度も独立して記録されてきたからだ。ゾウの内面で何が起こっているにせよ、行動のパターンは本物で、再現性があり、同種の死体に遭遇したゾウに特有だ。
これこそが、「葬儀」という言葉よりも興味深い教訓と言えるだろう。私たちは長きにわたり、死に対する構造化された反応は、ほかのどんな動物にも見られない、ヒトに固有の特徴の一つだと思い込んできた。ゾウたちは、この境界線が想像以上に曖昧なものであることを示す、最も明確な科学的根拠の一つだ。
生涯にわたって社会的絆を維持するようにつくられた、重量5kgのゾウの脳のどこかでは、喪失に似た何かに対処するための情報処理が行われているのかもしれない――たとえそれを言い表す言葉はないとしても。


