ChatGPTが公開されて間もなく、ある企業のシニアバイスプレジデントが、上役にあたる最高経営責任者(CEO)の執務室を訪れて、こう述べた。「会社を辞めさせてほしい」
これは、ChatGPTに代表されるAI(人工知能)テクノロジーは、リーダーとしての激務の片手間に学べるほど小さなものではなく、時代の流れに取り残されたくない、と考えた末の申し出だった。
しかし、その話を聞いたCEOは、異なる提案をした。上級管理職としての役割のみを辞めて、AI技術を学ぶために実質的な時間を費やし、その後会社に復帰して、学んだことを社内の人たちに教えてほしい、と言ったのだ。シニアバイスプレジデントはこの提案を受け入れ、今ではこの会社でAI導入のリーダー役を務めている。
このストーリーは、人々が、企業が新たなテクノロジーに適応しつつあることの証明として語りたがるものだ。10年前であれば、幹部職にあるリーダーが、その職を退いて、individual contributor(IC:管理任務を負わない専門職)になるという話は、降格と受け止められていただろう。だが今は、先見の明のある一手として語られる。
だがここで、このストーリーを成立させた要素に目を向けてみてほしい。スキル不足を自覚するシニアリーダーは、ギャップを埋めるためにCEOの許可が必要だった。もしCEOが許可しなければ、このスキル不足は、キャリアの見直しではなく、退職で終わっていた可能性が高い。
新たな能力の獲得は、企業における適切な人物に、適切なタイミングで気づかれ、価値を認められ、信頼されるかどうか、という点にかかっていたわけだ。「適切な人物」(ここではCEO)がいない場合、このストーリーは崩壊してしまう。
これが、企業から与えられるインフラと、個人が保有するインフラの違いだ。与えられるインフラは、自分以外の他者の善意によってのみ存在する。一方、自らが保有するインフラは、その場に誰がいるかに左右されず、スキルを持っている者について回る。
「AIと仕事」に関する話題がメディアを賑わせているが、その背後にある真の問題は、大半の人々が今アクセスできるインフラが、上記のどちらのタイプか、ということだ。正直に答えるなら、そのどちらにも、あまりアクセスできていないのが現状だ。
経済は、新しい時代を迎えるたびに、働く人間に適応を促す。AIが今回もたらしている新たな時代は、これまでのいかなる世代が経験してきたよりも速いペースで、自らのスキルやキャリア、専門職としてのアイデンティティを刷新するよう求めてくる。しかし、働く者の大半は、自分なりのやり方で新たなスキルを身につけるのに必要な時間やツール、資金や身分の保障を得られていない。



