では、なぜ「最強ではないモデル」を出すのか
当然の疑問は、そもそもなぜInklingをリリースするのか、だ。答えは、保護主義の追い風を生かす抜け目ない戦略にある。Inklingは、Apache 2.0ライセンス(商用利用も認める寛容なオープンソースライセンス)を掲げて、重みを公開しているオープンウェイトモデルだ。売り込みの主眼はチャットボットとしてではなく、同社のファインチューニング基盤「Tinker」を通じてカスタマイズするためのベースモデルに置かれている。Thinking Machinesが賭けているのは、「企業が求めているのは最も賢い汎用モデルではなく、自社仕様に作り込めるモデルだ」という読みである。
(編注:シンキング・マシーンズは、Inklingのモデルカードのライセンス欄に「Apache 2.0」と記載している。ただしモデルの重み、パラメーター、関連資料、およびそれらの改変版の利用には、同社独自の「Model Acceptable Use Policy」も適用される。この利用規定により、一定の用途制限が設けられている)
だが、それなら米国企業は、もっと優秀な中国モデルで同じことをすればいいのではないか。実際、やろうとした。中国のオープンモデルは優秀でほぼ無料であるため、米国企業はこぞって飛びついた。OpenRouter(オープンルーター、各社のAIモデルへのアクセスを仲介するサービス)経由で処理される企業利用トークンのうち、中国モデルの比率はおよそ45%に達した。コインベースはAIエージェントをGLMとKimiに移行し、AI関連費用をほぼ半減させた。AIコーディングツールのCursor(カーソル)は、Kimiをベースに自社モデルComposerを構築した。
ところが、ワシントンは今、その扉を閉ざそうとしている。国務省は今月、中国モデルのリスクについて米国企業に警告を発した。下院の各委員会は、中国製AIの利用をめぐってエアビーアンドビーとCursorの調査に乗り出した。政府調達からの排除も立案されつつある。政府関連の仕事に関わる企業にとって──さらには議会の召喚状を恐れるあらゆる企業にとって──最終的なルールの中身がどうであれ、中国のオープンモデルは事実上「手を出せないもの」になりつつある。このリスクの重圧は巨大であり、企業を別の方向へ押しやるにはそれだけで十分なのだ。
Inklingは、この空白を埋めるために存在する。コンプライアンス上安全なベースモデル。最良のベースモデルではない。ただ「許された」低リスクのモデルだ。
InklingのアーキテクチャがOpenAIについて物語ること
ここで、Thinking Machinesの創業者が誰なのかを改めて思い出してほしい。ミラ・ムラティはOpenAIのCTOだった。OpenAIの技術スタックの中身を正確に知っている。2023年11月の取締役会騒動では暫定CEOも務めた。OpenAIが何を作り上げ、これから何を作れるのかについて、彼女ほどの視界を持つ人間は地球上にほとんどいない。その彼女が、白紙の設計図と20億ドル(約3260億円)、そしてエヌビディア最新のGB300システムを与えられて選んだのは、DeepSeekを踏襲したアーキテクチャと、Kimiに頼った訓練の立ち上げ方だった。
これは、オープン研究の技術的フロンティアが実際にはどこにあるのかを示す、決して小さくないデータポイントだ。しかも、OpenAI自身の減速が数字に表れ始めたタイミングと重なっている。当初GPT-5.6のロールアウト(提供開始)は限定的だったが、7月には一般提供を開始し世界規模で展開している。Kimi K2.6は、ソフトウェア開発能力を測るベンチマークSWE-Bench ProでGPT-5.5をわずかに上回った。オープンウェイトモデルが主要なプロプライエタリ(非公開)モデルをこのベンチマークで上回ったのは、初めてのことだ。米国のクローズドなラボと中国のオープンなラボの差は、多くのタスクで数カ月にまで縮まり、一部ではすでに逆転している。OpenAIの技術部門を率いた人物が、古巣のアプローチに似た何かではなく、中国の設計図から出発してモデルを作った。それならば市場は──優れたベイズ主義者(新しい証拠に応じて予測を修正する合理的思考の持ち主)がそうするように──OpenAIに残された「堀」(競争優位性)の大きさについて、考えを改めるべきだろう。


