さらに、アメリカ代表FWフォラリン・バログンが7月1日(日本時間2日)、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦にてレッドカードを受けたものの、これに伴う出場停止処分が1年間執行猶予されるという異例の決定が下された。通常あり得ない処分見直しであり、トランプ大統領からFIFA会長への直談判(電話)が背景にあるとされ、大きな波紋を呼んだ。この結果、バログンは6日(同7日)のベルギー戦にも出場を果たした。幸いアメリカはここで敗退となったが、問題は勝敗ではないだろう。欧州サッカー連盟(UEFA)は公式に「理解しがたく正当化できない」と同会長への調査を要請している。
スポーツの興奮から「世界の縮図」へ
かつて、サッカーファンにとってワールドカップは「日常から離れた90分間の興奮」だった。戦術やプレーに一喜一憂し、大会が終わればまた日常に戻る。そこは現実社会の恐怖や複雑さから切り離されたカタルシスの場だったはずだ。
しかし、深まる分断の中で開催された今大会において、スポーツはもはや中立的な避難所ではあり得なかった。ロサンゼルスで行われたイラン対ニュージーランド戦では、体制に批判的なイラン系ディアスポラが会場に集結し、FIFAが使用を禁じてきた旧国旗(獅子と太陽の旗)を掲げて抗議の声を上げた。現体制の国歌が流れると、一部のファンはブーイングを浴びせ、1979年以前の国歌を歌う一幕もあった。イラン国旗を掲げる別のファンとの間で小競り合いも発生。48カ国の首脳やファンが一堂に会するこの巨大な祭典は、意図せずして現代のむき出しの外交舞台へと変貌を遂げたことが、まさにピッチの外の光景として証明された。
それでも、一つだけ希望があるとすれば、それは国際的な交流だろう。自国第一主義を深めるアメリカが、大会期間中だけは、世界に向けて強制的に扉を開かざるを得なかった。カンザスシティやフィラデルフィアの街角で、中東やアフリカからやってきたファンと地元のアメリカ人が顔を合わせ、不器用ながらもホスピタリティを交わす。肥大化した資本主義や冷酷な政治の壁を越え、スポーツの根源的な美しさが垣間見えるとすれば、それはスタジアムのVIP席ではなく、そうした名もなき市井の人々の交流の中にこそあったはずだ。
ノルウェー代表サポーターによる応援パフォーマンス「バイキング・ロー(Viking Row)」がMLBの試合中にスタンドで巻き起こる様などは、まさにその象徴だろう。
決勝を目前に控えた今、本大会が最終的にどんな記憶として刻まれるのか、そして将来、どのような評価を得るのか、その答えはまだ出ていない。


