映画の舞台になっているミラノのファッション関係者がこの映画をどう見たのか。周囲の何人かに聞いたとき、ファッションメディアの人は「せっかく、ファッションメディアというテーマを深く切り込めるチャンスだったのに……」と嘆き、ファッションにビジネスとして関わる人たちには、「忙しくて、ああいう映画を観る暇がない」と軒並み言われたのです。つまり、ファッション業界のなかではなく、周辺にいる人たちが大ヒットに貢献しているはずです。
ぼくは、このリアリティを肯定的にみました。
気晴らしのためとの意味はさておいて、娯楽はアクセスの障害をできるだけなくすもの、より幅広いファンを獲得するための手段とも語られることが多いです。難しいことはやさしくし、「レベルを下げる」という言い方とセットで使われたりします。
作品の訴える議論の方向に賛同者を集めようとすれば、逆に人はその方向に目を向けなくなるかもしれません。フェミニスト運動のデモにフォーカスしようとすると、フェミニストという概念に関心のない人たちは、ネガティブな先入観を抱いたまま黙って立ち去ります。
多くの人は、たくさんのことを適切に認識や理解しているものではありません。よって議論の論点に不案内なまま、不要な衝突が頻発します。それでは、それらのたくさんのことに全員が的確な認識や理解をすべきか? それは理想であるようでいて、これほど非現実的なことはありません。
ここで考えられるのは、「他人に寛容であれ」と説教するのではなく、できるだけ対立しない程度に世の中の凸凹を「そういうもの」と認識する土壌をつくる──この優先順位をあげることです。
そうすると肝心なのは、多くの人がさまざまなテーマについて自分で考えるための素材を提供することになります。賭博場で富士子のつくった料理をやくざたちが美味そうに食べる。ぼくも、あの牛丼を食べたいと思った。蕎麦屋で富士子がそばをご馳走になる場面は、社会において食の役割とは何か、をそうとうに考えさせてくれます。
この素材提供が、娯楽映画であると再認識したわけです。『FUJIKO』は娯楽映画の価値もつきつけてくれたとしか言いようがないほどに、ぼくの脇の甘い部分を衝いてくれた気になりました。前澤さんは鑑賞後に「爽快感」があったと表現していますが、仮にぼくも同じ言葉を使うならば、娯楽映画そのものを摑まえなおした気持ちを指すかもしれません。
これまで前澤さんと二人で語り合ってきた、会うべき人や友情、あるいは詩といったテーマを『FUJIKO』経由で反芻するというのは、娯楽映画の感想の着地点として、それこそ爽快であり躍動感がありますね。


