前澤さん、ロンドンでの留学時代に良い友達をたくさん得たのですね。
本連載のどこかで書いたかもしれませんが、大学生の頃、社会学者の見田宗介さんに教えられ、今もぼくの大切な指針になっていることがあります。それは「最悪は重く浅いこと。最善は軽く深いこと」です。何らかのことを判断するとき、あるいは何かを自ら行うとき、「軽く深い」を基準とするわけです。
重い表現というのは、あまり工夫がいらないのです。ほっぽっておけば、自ずと重くなる。極端に言えば、怠惰でも良い。他方、軽くするには精神状態にも常に注意を払いながら、ある一貫した意思を示していかないといけない。そして深いとは、あらゆる思考や経験を辿りながらも、常に「この先がまだあるに違いない」と考える姿勢です。
木村太一さんの『FUJIKO』は「軽く深い」を目指してつくられたと、観た直後、まずそう思いました。リズム感がいいとか、カットが絶妙というのもあるでしょう。だが、この映画における軽さの一番の鍵は、徹底した「相対化」だと考えました。
主人公である富士子は極めて厳しい道のりを経てきた。これを生命保険のセールストークに使い、静岡の支店で抜群の営業成績を上げる。苦労話の相対化です。その結果、上司から別天地での挑戦を勧められる。そして生まれ故郷をはじめて離れる。ここで静岡という土地そのものを相対化し、次の担当地域でもあの話を使うだろうと観客に思わせるのです。しかも、相対化はここで終わらない。
監督の実母をモデルにした脚本と知れば、富士子の息子が、その全体の構図をまた映画のネタにしているのかと腹落ちします。「親の苦労話を商売の材料にするなんて!」などというコメントを軽くいなします。
更にいうと、世の中に氾濫するストーリーテリングを巡る熱気をも暗に批判している、と勝手に想像します。監督が意図したかどうかには関わらず、です。「軽く」を目指すと、「深く」いくことになります。
これは「軽く深い」の王道であり、効用です。
自分自身を笑える人間は強い、と言います。自分を他人の目で見られるからです。それができないと「重く、深いフリ」の振る舞いばかりが蔓延します。
ロベルト・ベニーニ監督の1997年の映画『La vita è bella(人生は素晴らしい)』では、ユダヤ人の父親が小さな息子に、ナチスの強制収容所生活をそのままゲームとして見せました。どれも辛辣な現実ですが、見方次第でそれらを笑いに変えられる。生き残り前に進むには、エピソードを「ネタ化」するのがコツなのです。
もう一つ、『FUJIKO』を観て思ったことがあります。娯楽映画の強さです。
前澤さんが「フェミニスト映画とも社会派映画とも取れる作品で、『シングルマザーの描き方が弱い』という批判もあるそうです」と書いているのをみて、とっさに思ったのは『プラダを着た悪魔 2』への評価です。


