キャリアが終わっても後悔しないよう、母親の実話を映画化することを決意。2年近く説得し、「明るい映画にすること」を条件に承諾を得たそうです。実際『FUJIKO』を見終えた後の余韻は、感動よりも「爽快感」でした。
「泣かせる、不快にさせる、怖がらせるより、笑わせる方が難しい。映画祭でコメディーが評価されたのは感慨深かった。みんな今、笑いたいのだと思った」
『FUJIKO』はセリフが少なく、説明が少ない映画です。セリフが重なり、会話の途中でシーンが切り替わる。感情の移り変わりはビジュアルやテンポ、音楽で表現されています。理由を尋ねると、「お客さんはバカじゃない」と返されました。
「説明しすぎない意識はあった。観た人が入り込める余白を用意しておく。コーヒーを出して、お客さん自身が継ぎ足せるくらいのスペースを残す感覚。じゃないと共同制作にならない」
観る人の「わたしはこう思う」という力を引き出したい。そのためには惹きのあるビジュアルで、対話の入り口に引き寄せる必要があるとい言ます。コンセプチュアルなだけではダメだと。
イギリスはコンセプチュアル性を重視する場所ですよね、と聞くと、「そう。でもだからこそアンチ・コンセプチュアルになった。基準を理解したからこそ反発ができる。美学は反発の歴史だ。鵜呑みにするより、噛み砕いて反発する方が大事。それがセンスだと思う」。今回も、家族へのヒアリングやマイノリティの立場、時代背景を学んだ上で、事実に寄り添い過ぎずバランスを取ることが一番難しかったと言います。
『FUJIKO』はフェミニスト映画とも社会派映画とも取れる作品で、「シングルマザーの描き方が弱い」という批判もあるそうです。しかし太一さんは、「マイノリティ向けに作った映画ではない。富士子をどれだけかっこよく描くか、特に男性に『かっこいい』と思ってほしかった」と反論します。当事者ではないからこそ、男性やライト層に向けた作品を作る。ライト層を動かさないと変化は起きない、と。
象徴的なシーンがあります。義理の家族に娘を奪われ途方に暮れる富士子を、カフェの店主がフェミニスト運動のデモに連れ出します。そこで「女らしさ」からの解放を叫んでいた声が、途中で「娘を返せ!」のエールに変わる。そして富士子はまた走り出すのです。
今回もうひとつ彼に聞きたかったことがあります。ヨーロッパと日本における評価の違いです。私自身、同じ作品に対しヨーロッパでは「日本を感じる」、日本では「ヨーロッパらしい」と言われた経験があるからです。
太一さんは、意識しない部分も多いとしつつ、セリフの重なりやテンポの良いカット割など「海外で評価されるから」とこだわる部分もあるようで、結果、「海外の監督が撮ったような作品だ」と言われることに。押井守監督の「日本映画はナポリタンだ。無理してペペロンチーノを作っても本場に勝てない」という言葉を引きながら、自分は「日本の食材で最高のペペロンチーノを作っているのだ」と表現します。
ゴールが見えなくなっても止まらず、自由を求めて突き進む主人公・富士子の姿は、エネルギッシュで爽快な太一さんの人格そのものです。この映画で「今の太一さん」に会った気がした。だからこそ、「今会わないと後悔する」と思ったのです。この連載で話題にした「会うべき人」や「友情」と重なる瞬間でした。
安西さん、前回の「散文と詩」にもつながる身体性の価値を、この映画でみずみずしく体験し、今回話題にしてみました。安西さんが『FUJIKO』にどんな感想を持つのか、大変興味深く思っています。


