「若い女性の流出」は、地域の危機として語られることが多い。しかし、本当に問うべきなのは人口の増減ではなく、その土地で誰もが自らの未来を選べるかどうかではないか。古い信仰や祭りに残る「女人禁制」を手がかりに、伝統と偏見の違い、そして地域の未来について考える。
「若い女性の流出」が「地域の危機」として語られる。私は、その語り方にいつも違和感を覚える。そこではしばしば、彼女たちが何を感じ、なぜその土地を離れるのかより先に、地域が何を失うのかが数えられるからだ。
十年あまり前に社会を揺らした「消滅可能性自治体」の議論も、2024年に人口戦略会議が更新した分析も、20歳から39歳の若年女性人口の減少を核心の指標に据えていた。
政策には数が要る。だが、人を守るための尺度は、ときに人を縛る口実へ変わる。女性の排除が問題なのは、それが過疎を招くからではない。仮に人口が保たれたとしても、尊厳を損なう排除は、それ自体として正しくない。
問うべきは、地域が何を失うかではない。なぜここでは自分の未来を描けないと感じる人がいるのか、である。地域の未来とは、本来そういう問いのはずだ。
もちろん、地域は一様ではない。若い女性を引きつける中核都市もあれば、大都市の内部にも固定的な性別役割は残る。問題は「地方」という地理的な区分そのものではなく、性別によって未来への道を閉ざす構造である。

「血の池地獄」という古い伝承に触れたとき、私はこの問いを別の角度から考えさせられた。ここで見つめたいのは、特定の信仰や地域ではない。女性の身体を不浄と見るまなざしが、祈りや救済の形式と結びつき、長く受け渡されてきたという構造である。
中世以降に民間へ広まったとされる仏教経典「血盆経」では、女性が月経や出産に伴う血のために死後に苦しむと説かれる一方で、読誦や書写によってそこから救われる道も示された。さらにその背景には、女性はそのままでは成仏しがたく、男性に転じて成仏するという「変成男子」の思想もあった。そこには、安産を願い、亡き母を弔い、女性の往生を祈る切実さと、女性であること自体を欠落として扱うまなざしが、複雑に同居していた。
一方で、過去の信仰や民俗を、現代の物差しだけで断罪することには慎重でありたい。祭りや儀礼には、災厄を鎮め、死者を弔い、ほどけかけた共同体を結び直してきた力がある。近代の効率では置き換えられない厚みがある。しかし、祈りが切実であることと、その器に偏見が混じっていないことは別である。伝統を守ることと、偏見を保存することは同じではない。



