祭りに表れる地域の「本質」
この問いは、いまの地域社会にもそのままつながっている。多くの地域が「最先端」を語る。DX、スタートアップ、関係人口、ウェルビーイング、女性活躍。けれども、その同じ土地で、地域の誇りとされる祭りの中心へ至る道が性別だけで閉ざされ、地域の魂と呼ばれる行事の主役を一方の性が占め続けているなら、それは美しい言葉と現実との矛盾にほかならない。
祭りに女性がかかわっていない、という話ではない。むしろ多くの地域で、女性は祭りを支えてきた。食事を用意し、衣装を整え、会計を担い、子どもたちをつなぎ、当日の混乱を支える。問題は、その働きが「当然の裏方」として消費され、名誉ある役割や意思決定の席からは遠ざけられていないか、ということである。中心に立ちたい人に道が開かれているか。中心に立たない自由があるか。役を断ることが、裏切りと見なされていないか。そこに地域の本質が現れる。
ここでいう「中心」とは、必ずしも最も危険な役割や最も目立つ所作を同じように担うことではない。祭りには身体の強度、年齢、経験、信仰上の作法があり、それぞれの違いを無視して平板にする必要はない。重要なのは、違いの理由が説明され、見直される余地があり、本人の意思が尊重されているかどうかである。

「女性活躍」という標語も、同じ問いから逃れられない。人口減少を補う労働力として、あるいは地域を存続させる担い手としてだけ女性を語るなら、それは家庭や地域に残る性別の秩序を何も変えない。女性向けの起業講座や移住イベントを増やしても、権限、名誉、時間、所得、ケアの配分が動かなければ、改革ではなく装飾である。
これは感覚だけの話ではない。令和7年版の男女共同参画白書は、若い世代が出身地域を離れる背景を分析している。進学先や就職先の少なさに加え、女性では「地元から離れたかった」「親や周囲の人の干渉から逃れたかった」といった理由も挙げられている。さらに、東京圏以外から東京圏へ移った女性は、現在も東京圏以外に住む女性に比べ、出身地域に固定的な性別役割分担意識等があったと感じる割合が顕著に高い。
ここから見えるのは、仕事だけが理由ではないということだ。自分が一人の主体として尊重される未来を求め、出身地域を離れる女性もいる。もちろん、祭りや家の伝統を誇り、その継承に意味を見いだす女性もいる。問われているのは、そうした女性を否定することではなく、別の関わり方を望む人にも道が残されているかである。
実際に、祭りの側でも変化は始まっている。愛知県稲沢市の「国府宮はだか祭」は、正式には儺追(なおい)神事といい、2024年には、もみ合いに先立つ儺追笹奉納に女性が初めて参加した。現在公表されている手引きでは、女性団体の奉納は午前中とされ、午後からの裸男の奉納や神男を中心とする揉み合いには参加しないことなどが定められている。安全や作法、神事の構成に応じて役割が分かれること自体は、ただちに不平等ではない。問われるべきは、その違いが性別ゆえの宿命として固定されていないか、名誉と意味づけを一方の性が独占していないか、中心に関わりたい人に、そこへ至る道が残されているかである。
この変化を、私は前進として受け止めたい。ただし前進であるのは、それが開かれ続ける扉であるかぎりのことだ。「もう参加させている」という一度きりの到達点として問いを封じてしまえば、それは包摂を装った現状維持に転じる。女性をただ同じ形で参加させればよい、という単純な話でもない。安全、信仰、身体性、名誉の配分、そして本人が参加を望むかどうかは、それぞれ分けて考えねばならない。本当に強い伝統は、問い直しに耐える。何を守り、何を改めるかを丁寧に分けることこそ、伝統を未来へ手渡す成熟ではないだろうか。


