主語が「私」から「私たち」へ変わる時
なぜ、3年前には30人しか集まらなかった企画が、今年は320人を巻き込む熱狂を生んだのでしょうか。
それは、みせるばやおという空間の中で、関わる人々の主語が「私」から「私たち」へと完全にシフトしたからです。
最初は「行政がやること」だったまちの活性化が、やがて「行政も」になり、熱量に当てられた人々が「私も」と立ち上がります。そして最終的に、主語は「私たち」へと変化するのです。この主語の変遷こそが、まちづくりの本質だと私は考えています。

心理学者のアブラハム・マズローが提唱した「欲求段階説」をご存知でしょうか。人間の欲求はピラミッド状になっており、最上位に位置づけられるのが「自己実現の欲求」です。しかし、晩年のマズローは、そのさらに上に「自己超越」という段階があると考えました。
自己実現(自分の可能性を開花させる)を果たした先にあるこの段階では、「自分のため」というエゴを手放し、「他者や社会、より大きな存在のために生きる」という境地へシフトします。見返りを求めず、他者への貢献が自分事のように自然になる状態です。
まちづくりにおいても、まったく同じことが言えます。「自社の利益(私)」の充足から、「地域全体の幸福(私たち)」へ。主語が「私たち」に変わった時、まちの活性化は誰かから与えられるものではなく、自らの手で創り出すものへと昇華されるのではないでしょうか。
サードプレイスの先にある「フォースプレイス」
近年、家庭(ファーストプレイス)でも職場(セカンドプレイス)でもない、心地よい第3の居場所として「サードプレイス」の重要性が語られてきました。カフェや公園など、肩書きを外してリラックスできる場所です。
しかし、私たちがこの8年間で体現してきたのは、そのさらに先にある「フォースプレイス(第4の場所)」という概念に他なりません。
ただリラックスして消費するだけでなく、ライバル企業同士が肩を組み、行政と民間がフラットに議論を交わす。そこから一歩進んで「一緒にプロジェクトを始める」「スキルをシェアする」といった、能動的なアクションや自己実現が生まれる「共創の場」です。
みせるばやおには、組織の境界線を溶かし、異なる個性を「和える(あえる)」ための余白がデザインされています。この余白があるからこそ、人々は自発的に関わり、時に失敗し、そして今回のような熱狂を生み出すことができるのです。フォースプレイスという実践の場を通じて、人は自分という枠を超え、自己超越の利他精神へと自然に導かれていくのです。

境界線を溶かす「情緒的な価値」
スペックや効率だけを追い求める現代のビジネスの世界では、大人が本気で綱引きをして筋肉痛になることの価値は測れません。KPIにもROIにも表れないでしょう。
しかし、この泥臭い熱量やストーリーといった「情緒的な価値」こそが、人と人を強く結びつけ、結果として企業を、そしてまちを強くしていくのです。論理や数字だけでは人は動きません。心を動かすのは、いつだって体温のある体験と、共感できるストーリーです。
「行政がやること」を待つのではなく、「私たち」で創り上げる。エゴを手放し、他者への貢献が自然な振る舞いとなる自己超越の境地。
最後に、一つだけ聞かせてください。
あなたの会社の隣に、ライバルがいる。 その人と、最後に話したのはいつですか。
境界線を越え、肩書を外した先にある「余白」に飛び込んでみてください。そこにはきっと、心地よい筋肉痛とともに、想像もしていなかった共創の景色が広がっているはずです。


