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2026.07.08 13:30

「人たらし」の論理と美学:川村雄介の飛耳長目

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あれほど心に響いた教科書所収の文章には初めて出会った。「時に残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた」。中島敦の『山月記』の一節である。高校の現代国語の教科書だった。それまで理数科目が得意で、国語嫌いだった私は、この文章に触れた直後から、内外の文学書を渉猟する文学青年を自称するようになった。

大学受験が近づくと、友人たちから、ある現国のベストセラー参考書を強く薦められた。書店の受験コーナーに平積みされたこの参考書を開いて考え込んでしまった。長文や難文を論理的に整理、仕分けして文意を分析的にとらえる手法が展開されていたのである。国語の参考書というより、文章を数式化した理系のガイドブックのように感じた。

私はこの名参考書を書棚に入れたまま、ほとんど開くことがなかった。山月記以来、授業中でも膝に乗せた新書や文庫を隠れ読みして、膨大な数の本の世界に入り込んでいた。すると、文章は感覚だ、数学みたいに論理的に分解するやり方は邪道、現国の勉強など不要だ、と確信してきた。

文部科学省は、高校国語の「論理国語」と「文学国語」の区別をやめて統廃合するという。現行制度では、理系志望者を中心に文学離れが懸念されているからだそうだ。当然の対応である。

論理国語は論文や実用文など、論理的に組み立てられたものを指す。実社会でその典型は法律の文章だろう。特に法令の文章は、解釈の余地を限りなく排して正確性と論理性を研ぎ澄ませた文章である。生活していくうえでこれらの読解能力が大切であることは間違いない。また、論理性の高い文章は、美とは無縁のように思われがちだが、秀でた論文には美しさもある。数式美にも通じる。

文学はどうだろうか。例えば川端康成の『山の音』である。身に染みる加齢への不安と家族への悩み、息子の妻へのほのかな思いが錯綜する主人公に聞こえる山の音を条文で表現できるだろうか。石川淳の『焼跡のイエス』で描かれる、戦後の闇市に出没する狂暴、残忍で不潔な少年はどうか。彼にナザレのイエスを見る心境と時代風景を論文で体感させるのは困難だ。まして、「岩にしみいる蝉の声」や「わが身世にふるながめせしまに」を論理的国語で解釈しても、心を打たない。

文学には匂い、音、温度感や空気が濃厚に漂う。読み手は五感を総動員しながら、想像力を働かせることになる。

ただし、小説、詩歌にも構成や展開には論理がある。論文とは著しく異なる体裁だが、良い作品には見事なロジックが潜んでいる。感性の羅列のように見えても、感動力をもつ文学は不可視的論理を内在している。読者はこれに直ちには気づかないかもしれないが、論理が破綻した作品は読むに堪えない。論理国語をカメラで撮った写真だとすれば、小説や詩歌は同じ光景を描いた絵画であろう。

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